うめはらなかせの日記みたいな掲示板2

アコースティックギターの前にすべての曲は平等である

下世話なぼくを、神よ憐みたまえ

筆者畢竟の書き下ろし1100枚

という小池真理子の小説、

神よ憐みたまえ

読みました。

畢竟(ひっきょう)って、

究極、至極、最終などの意、らしいです。

 

570ページの単行本、長かったです~

ずっしり重い大作で、読み応え十分。

映画でいえば「砂の器」みたいな。

あらすじは――

昭和三十八年、三井三池炭鉱の爆発と国鉄事故が同日に発生。

「魔の土曜日」と言われたその夜、

十二歳の黒沢百々子は何者かに両親を惨殺された。

なに不自由のない家庭に生まれ育ち、

母ゆずりの美貌で音楽家をめざしていた百々子だが、

事件は重く立ちはだかり、暗く歪んだ悪夢が待ち構えていた……。

 

最初に犯人は提示されていて、

ミステリーというよりは文学ですか。

被害者も被害者の娘も美しい女性で、

美しくなければこんな悲劇も起こらなかったでしょう。

見た目問題がうるさいいまの時代に、

どうなんだろうと思わないでもありませんでした。

(けっこう最近の作品なんです)

ぼくは昭和人間なので違和感はないですけど。

 

人間ってのはなにがあっても、ただ生きていくだけ。

主人公のような波乱万丈の人生であれ、

ぼくらのような平々凡々の人生であれ。

そこにいいも悪いも、幸も不幸もない。

そんなことを思いました。

 

学校の先生が殺人容疑で逮捕されたニュースがありましたね。

周囲の人たちは、とてもいい先生だったと

口をそろえて証言しているとか。

人間って、そうもあれば、こうもあるっていう

不可解な存在なんでしょう。

順風満帆と見えた人生にも落とし穴があり、

そこに落ち込んでしまったとしても、

人生は続いていきます。

どんな人生も最後まで生き切るほかないんです。

 

終章は震えるほどに荘厳。

圧巻の一代記である。

とべた褒めする書評もありましたけど、

ぼくにはよくわかりませんでした。

この小説を読んでいると、後半、

ぼくの耳のなかでは、

これも愛 あれも愛 たぶん愛 きっと愛

という下世話な歌詞が流れてきます(五木寛之の作詞だけど)。

でも主人公はピアニストですので、

もっと高尚なクラシック曲が登場します。

興味のある方はお聴きください。

(と書いてるぼくは聴いてないです)

 

本書のタイトルはここから来たのですね。

www.youtube.com

 

あと、チャイコフスキーの『弦楽セレナード』。

www.youtube.com

 

クラシック好きのなかせさんは聴いてることでしょう。