うめはらなかせの日記みたいな掲示板2

アコースティックギターの前にすべての曲は平等である

恋と死の、ねばならぬ

今年はまだ2か月も残ってるんですけど、

今年読んだ本のなかでいちばん多くの刺激をもらったのが、

この本でした。

金閣を焼かねばならぬ

有名人が自殺したニュースを聞くと、

え、なぜ? あんなに才能にあふれていて、

仕事も順風満帆だったのに、と不可解さに驚き、

では、動機はなんだったのだろうと考えてしまいます。

 

この本で最初に教わること、それは、

まず出来事が起こり、

そのあとに人間は認識する

ということです。

出来事が否応なく起こり、

後追いで人はその出来事を知ります。

たとえば恋がそうですね。

心のなかでなんだかわからない

モヤモヤ、ワクワクする感じがして、

彼女(彼)に会いに行かねばならぬ

この気持ちを打ち明けねばならぬ

と思いつめ、いつかの瞬間に、

はっ、これが恋なのか! と腑に落ちる。

自殺も、ときにはそうして起こるかもしれないのです。

 

出来事が起こると、人はその理由を知ろうとします。

恋も自殺も、ただ起こっただけなのかもしれません。

なのに、人はそこに理由、動機があるものと考えてしまう。

実は赤ちゃんのときから人はそう考えるように、

方向づけられているというのです。

 

赤ちゃんは生まれ落ちて、なんだかわからないまま

泣いているときにこんな経験をします。

体内に言葉にならない不快な感覚が起こり、

そうこうするうちに、母親から乳を与えられ、

それとともに、あのえもいわれぬ不快な感覚は収まった。

もし赤ん坊が口を効けるとしたら、次のようにいうところである。
「ああ、そうか。僕はおなかがすいていたんだ」と。

 

この経験が、物事には理由があると考えることの原型です。

そしてその理由は他者(この場合は母親)が

与えてくれたことも赤ちゃんは知ってしまいます。

 

われわれの意識の初期設定には、

動機は誰かが知っているものだというプログラムが書かれている。

だから動機はあってしかるべきなのである。

 

という話はほんの数十ページ読んだところまでで、

まだまだ続きます。
金閣寺の放火僧、林養賢(はやし・ようけん)はなぜか、

金閣を焼かねばならぬ

と思ったのです。

著者は精神科医で、

金閣を焼いた犯人の分裂病統合失調症)発症直前の、

動機を超えた人間の実存を追うというテーマ。

正直言って半分も理解できてませんが、

心の病や、人間がなにかを考えて生きていく、

そのことの基礎が語られていて、

何度も目が覚まされるような気持ちになりました。

(もはや忘却の彼方ですけど)

こんなのをもっと頭の回転の速かった若い頃に読んでたら

ぼくの人生は違ってたかも。

バカバカバカ。

 

ちなみに1950年7月2日に焼かれる前の金閣

現在のような金ぴかではなかったようです。

金箔が剥がれ落ちて地味な建物でした。

「美への嫉妬」などという動機は、

そんなことからもあやしいといえます。

 

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