うめはらなかせの日記みたいな掲示板2

アコースティックギターの前にすべての曲は平等である

ルドルフにイッパイアッテナ(2)

 うたかたの恋」の真実

 の続きです。

 ハプスブルク皇太子ルドルフが

自死に際して道連れにしたのは、17歳のマリー。

男爵令嬢というと、さぞ高貴な身分の娘さんかと思うのですが、

実のところ爵位には、

公候伯士男

という序列があって、男爵は爵位のなかでも最下層なのです。

(日本では公爵と侯爵をどう言い分けていたんでしょうね)

 

さらにはハプスブルク帝国の皇太子が心中する、

しかもキリスト教徒が自殺するなんてタブー中のタブーですから、

相手方の女性は存在してはならないものとして扱われました。

 

1889年1月、悲劇の一夜が明けた30日の午後、

皇太子の遺体はウィーンの宮殿へと運び込まれました。

が、少女マリーはそのまま心中現場の館に放置されました。

彼女の遺体は――、

皇太子の寝室からあわただしく運びだされ、

近くにある小さな暗い部屋のベッドの上に投げ出された。

両目は開いたままで、口も半ば開き、血の塊が付着している。

――という状態のまま38時間放っておかれました。

 

遺体を引き取りに行こうとする母親のヘレーネ夫人は

人目につかない方法で埋葬するよう、王室から命じられます。

皇太子の遺書には、自分のなきがらをマリーのそれと並べて

市民墓地に埋葬してもらいたいと書かれていましたが、

その願いは無視されます。

さらにマリーの遺体の引き取りにあたっては、

霊柩車ではなく、通常の馬車に、座ったままの姿勢で乗せ、

6キロほどの山道を夜間に運ぶことを命ぜられます。

人目につくことを恐れたのですね。

まさに死者に鞭打つ仕打ちといえます。

 

皇太子と並んで葬ることはできませんでしたが、

母親は遺言にあった市民墓地に娘を埋葬し、

その後、礼拝堂も寄進したそうです。

 

ところが、再び死者に鞭打つ出来事が起こります。

時代は下って第二次世界大戦の終盤、

ウィーンの森は激戦場になります。

ここへ進撃してきたソ連車の兵士たちは、墓地周辺に野営し、

めぼしい墓という墓を掘り返しては副葬品を持ち去った。

少女マリーの墓とて例外ではなかった。

 

いま、ウクライナでもロシア兵による略奪が報じられていますね。

戦場における人間のありようが変わっていないのか、

ロシア人の狼藉ぐせが変わっていないのか、

マリーはまたもや辱められることになったのでした。

マリーの墓はとりわけ被害が大きかった。

五十六年前にマリーの遺骨が納められた銅製の棺は、

農作業用のクワを使ってこじあけられ、

ヘレーネ夫人らの家族が天国に旅立つマリーのためにと

入れた装身具がすべて消え失せている。

棺の中には、遺骨の一部とともに、

長い黒髪、洋服の一部と見られる黒色の生地、

それにハイヒールの黒いパンプスが残っていた。

 

ということで30歳の皇太子に魅せられた時点で、

不運のくじを引き当てたみたいな17歳のマリーの短くも悲しい生涯。

日本ではこういうのを、

成仏できまへんわな~

と他人が勝手に総括しますけど、

人生の幸不幸はだれにもわからないものです。