うめはらなかせの日記みたいな掲示板2

アコースティックギターの前にすべての曲は平等である

星条旗の下の植物園

こないだなかせさんが、

京都府立植物園のことを書いてはりました。

関係ないですけど、ぼくが生まれたのは1953年。

スターリンが死んでぼくが生まれたことになります。

終戦は1945年なので1953年といえば、

十分に戦後のつもりだったんですけど、
その時点で植物園は京都市民のものではありませんでした。

なぜかって、植物園は終戦の翌年、

GHQに駐留軍の住宅地として接収されて、

ぼくが生まれたときもまだ返還されてなかったからです。


駐留軍は植物園全体の4分の3にあたる

2万本の樹木を伐採したといいます。

なぜ切ったかというと、
戦争に負けた日本人が抵抗して、
園のなかに侵入してくるのを防ぐため、
警戒の邪魔になる樹木を切り払ったとのことです。

そんな元気は当時の京都人にはなかったと思います。
でも終戦の翌年くらいはまだそういう不安というか

警戒心が米軍にはあったということです。

 

植物園が返還されたのは1957年12月。
ぼくが4歳のころまでは、

京都に駐留軍がいたことになります。

ぼくの入学した永松小学校も接収されてました。

でも青い目の駐留軍を見た記憶はまったくないです。

幼少の頃の戦後の思い出としては、
円山公園清水寺、嵐山などで、
手足のない傷痍軍人さんがラッパを吹いて、
喜捨を求めていた光景です。
父がそれに対してお金を投じていた記憶はありません。

 

日本が占領されてたのは、

1945年から1952年までの7年間。

その後も京都で植物園が米軍に取られてたなんて、
だれが覚えてるでしょうか。

明日は真珠湾攻撃の12月8日。

平和はまだ続いています。