昨日の日記、アクセス数がすごかったんです。
ふだんの3倍もありました。
フェイスブックに上げたからではなくて、
その前から急上昇してました。
いったいどういう理由でそうなったのか。
タイトルに引かれて読みに来られるのか……
なかせさんの担当する日はふだんからアクセスが多いのですけどね。
で、アクセスが急降下するのが読書感想の日記です。
さて、50年近く前、就職前のぼくは暗かったです。
いいことがなにもなくて、するべきこともなくて。
自分を見失っていた気がします。
毎日、自転車で中京図書館まで行って本を読んでました。
(この図書館、もうないみたいです)
いま思うとあのとき読んでいた「派兵」という本が、
暗さのひとつの原因だったかもしれません。
どうしても出口が見つからないという感覚。
それはシベリア出兵をテーマにした小説でした。
そしていま再び同じテーマの本を借りて読みました。
1917年11月にロンア革命が勃発。
共産主義勢力の拡大に対して翌年8月、
日本は反革命軍救出を名目にシベリアへ派兵します。
シベリア出兵は、イギリスやフランスが
第一次世界大戦で勝利するために思いついた、
補助的な作戦に過ぎなかったそうです。
日本やその他の国はこれに巻き込まれていきます。
ウクライナの戦いと西側諸国の結束の図を思い起こします。
結局、日本は出兵した国々でも最長の期間
シベリアに居座り、最多数の兵士を送り込むことになります。
足かけ7年に及ぶ長期戦となってしまいます。
その損失はいまの感覚からするとハンパないものでした。
宣戦布告もなく始まったこの戦争での日本軍の戦死者は
3~4千人であったが、零下30度という極寒の地で
凍傷となった死傷者が1万人に達した。
戦費は10億円を越えた。
「出兵」という言葉以上に規模が大きな、
「戦争」と変わらない出来事でした。
「事件」と呼ぶには大きすぎるノモンハン事件も
これと似ています。
理由も無く他国に押し入り、その国の領土を占領し、
その国のひとびとを殺傷するなどというのは、
まともな国のやることだろうか。
という司馬遼太郎の言葉を著者は引用しています。
そんな悪名高いシベリア出兵なんですけど、
この本を読んでいると、為政者たちは陸軍大臣も含めて
だれもが撤兵したいと願いながら果たせません。
(当初は英仏にせっつかれながらも出兵をためらっていました)
しかし、撤兵を主張していた政治家も首相になると、
態度が変わってしまいます。
「安保堅持」と表明したのと似ています。
国のトップになると、それまで見えていなかった
景色の中にポツンと置かれるということでしょうか。
平民宰相と呼ばれた原敬も出兵に反対していましたが、
首相になると撤兵を成し遂げられませんでした。
かつて加藤高明は原首相との論戦で、
「出兵は長くして置いたが、土産も持たずして帰っては面目ない」
という態度は、「極めて姑息」であり、
「極めて非愛国」な「面目論」であると糾弾したことがある。
しかしその加藤も、首相に就任すると、
「土産のない」ままでは、北サハリン撤兵を断行できなかった。
「土産」とは北サハリンの領土または資源のことです。
エネルギー資源のない日本は(撤兵論者であっても)
ここだけはこだわってしまいます。
もうひとつ大きな理由があります。
出征した兵士たちの死を無駄にしたくはない、
という「死者への債務」という意識が撤兵を阻むのです。
世論を無視できない国であればあるほど、
国民やメディアの声が撤兵を押しとどめるのです。
血を流せば流すほど退けなくなっていきます。
世論形成に大きく影響するメディアの姿勢は重要です。
ジャニーズ事務所のことでだんまりを決めてる
新聞テレビを見てると、あ~あって思います。
ガーシーよりよほど大きな問題なのに。
ただ、撤兵できずに泥沼にはまっていく状況は、
アメリカもロシアもどの国も経験しています。
日本だけではないです。
遅きに失したとはいえ、日本は撤兵しました。
シベリア出兵は、政府が軍部を従わせて撤兵に成功した、
戦前最後の戦争であった
と著者は評しています。
いかにしてそれが可能だったのか。
彼が政党に立脚しない軍人だったからとも言える。
開戦の決断は華やかで、勇ましい。
その結果が戦勝であればまだしも、
得ることもなく戦争を終わらせる責任を負うのは、
その何倍も難しいことをシベリア出兵は教えている。
撤兵を実現したのは軍人政治家だったのですね。
そこは意外な驚きで、立派と言うほかありません。
ロシアにはこのとき以来、
日米欧から圧迫を受け続けてきた記憶が、
トラウマとなって残り続けているのかもしれません。
再び著者による司馬遼太郎の引用です。
ソ連は、建国のときにこの傷手をうけた。
自国の革命を守るために過剰に武装するという体質かできるのは
――武装好きがロシアの伝統とはいえ――
このときからだったといえる。
同時に、日本に対する武力的な警戒を過度にする
という伝続が加重されたのも、
このときからだともいえそうである。
以上、最後まで読んでくださった方はどれだけおられるでしょうか。
早々と撤退された方が多かったことでしょう。
賢明な判断でありました。
おつかれさまでした。