うめはらなかせの日記みたいな掲示板2

アコースティックギターの前にすべての曲は平等である

データが語る日本軍兵士

雨が降り続きます。

こういう日に外で働く人は大変。

もちろん兵隊さんも大変だったでしょう。

こういう本を読みました。

日本軍兵士

――アジア・太平洋戦争の現実

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まったく知らなかったというより、

なんとなく知っていたことが数字で裏付けられて、

分析的に淡々と記述されているという印象でした。

 

読んでみて改めて、ぼくが兵隊にとられたら、

敵に一発も撃つ前に死んでいたと思います。

 

まず初年兵の段階で古参兵の強烈なしごきにあって、

精神に変調をきたすか自殺していたでしょう。

 

船で外地に送られる際は、輸送船の底で衰弱死していたでしょう。

長くなりますが、引用します。


 先にあげた船舶輸送軍医部「船舶輸送衛生」は、

船舶輸送に特有の環境の一つとして、居住区画の「狭隘」さをあげ、

軍隊輸送では坪当たり三ないし四人の兵士が通常だが、

温度が高い熱帯地の輸送では坪当たり二・五人を理想とする。

しかし、船腹の関係や作戦上の要求から、

「坪当り五人の多きに達すること」があると指摘している。

 一坪に完全武装の兵士五人が押し込まれれば、

横になることさえ不可能である。

一九四四年七月、フィリピンに向かう輸送船の船内の状況を

軍医(見習士官)の福岡良男は、
「まるで奴隷船の奴隷のように、定員以上の兵が輸送船の船倉に詰め込まれ、

自由に甲板に出られぬ兵が、船倉の異常な温度と湿度の上昇のため、

うつ熱病(熱射病)となり、休温の著しい上昇、急性循環不全、

全身痙攣などの中枢神経障害を起こし、多くの兵が死亡した。

その都度、私は水葬に立合い、肉親に見送られることなく、

波間に沈んで行く兵を、切ない悲しい思いをして見送った」

と回想している(『軍医のみた大東亜戦争』)。

 入隊したばかりの初年兵など、甲板に出られない兵士が多かったのは、

福岡によれば、甲板への出入り口付近に涼を求めて古手の古参兵たちが

我が物顔でたむろしているからだった。

ここを読むだけで絶望感にとらわれます。

 

こんな地獄の船旅を生き延びたとしても行軍の苦しさが待っています。

これも引用すると――

兵士たちは、鉄帽(ヘルメット)、背嚢、雑嚢、小円匙(シャベル)、天幕、

小銃、銃剣、弾薬血(弾薬入れ)などの武器や装具を身につけて行軍する。

長期の戦闘、特に後方からの補給か期待できない戦闘に参加するときは、

予備の弾薬や食糧がさらに加わる。

問題は、どれだけの重量の負担に兵士か耐えられるかである。

 陸軍軍医団の研究によれば、日中戦争前の段階では、

負担量の「能率的限界は体重の三五ないし四〇%の範囲」

とされていた(『行軍病提要』)。
 ところが、日中戦争か長期化するなかで、

陸軍軍医大尉、出口鉄也の研究によれば、

「近代戦闘の複雑化に伴い、兵の携行する武器装具は益々増加し、

兵の戦時負担量は体重の五〇%を超過せんとする状況に」なった

(「武装方法の衛生学的研究 第二報」)。

 

体重の40%というと、ぼくの場合で24キロになります。

5キロのお米を5袋も背負って歩くなんて想像できません。

中央市場で働いていたとき、20キロのタマネギの箱を、

2個抱え上げたことがありますが、

これは瞬間最大風速みたいなもんです。

そんなのを背負って歩き続けるのは不可能だと思います。

 

こうして読んでいくと、軍隊というところは戦況や兵の状況を、

きっちり数字で、すなわち科学の言葉で把握しているにもかかわらず、

それをあえて無視してきて敗戦に至ったことがわかります。

そうした態度の底に流れているのは徹底した人命の軽視、非人間性です。

こんなに国民を大事にしない国が、勝っていいわけないと思いました。

いったいなんで、こんな戦争をしたのか。

 

日本人の戦没者310万人の9割以上は、

敗色濃厚な1944年以降に亡くなったと

著者は推定しています。