うめはらなかせの日記みたいな掲示板2

アコースティックギターの前にすべての曲は平等である

歴史に「事実」はない?

ネットニュースには、ときどき

なんで?

と思うのがありますね。

今月の頭に日本テレビ金曜ロードショーで、

「ファンタスティック・ビースト」

という映画が放映されたのですが、それに対して、

カットされすぎてわからない

という批判がネットにあふれたそうです。

ところが、実際はノーカット版だったとか。

視聴者はノーカットで観ているにもかかわらず

カットされていると思い込んで、

「カットがあった」という事実ができあがったのですね。

不思議なものです。

この本を読んでいて同じ不思議さを感じました。

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戦艦武蔵はどのように語られてきたか、

を考察している本です。

事実は一つであるはずなのに、

人によって話すことが違います。

たとえば武蔵と運命をともにした猪口艦長の最期について、

艦橋でピストル自決をした

刀で割腹をした

体を羅針盤にくくりつけた

と書物によって3つのパターンがあります。

それぞれ異なる証言を採用したというならわかるのですが、

理由があいまいなまま同じ著者が説を変更したりします。

なにが事実だったのでしょう。

 

歴史小説の大家の作品も「小説」として読むのはいいけど、

それを「史実」ととるには疑問符をつけなければなりません。

あの司馬遼太郎が戦争末期に戦車兵だった自身の体験として語る、

避難してくる住民が邪魔になったら

ひき殺して行けと上官にいわれた

というエピソード(これは小説ではなく対談やエッセイに掲載)も

真偽が定かでないとされているそうです。

本人が経験したと語っていることすら

事実あったかどうか疑わしいとされるのですね。

 

徹底して取材して「真実」と確信したものだけを

採用したという吉村昭も例外ではありません。

生還者からの情報に基づいて書いたことが

誤りだと遺族から指弾されたということです。

その「事実」を書くにあたって

存命だった当事者に取材していなかったことが

ぼくにはとても意外でした。

吉村にとって本当に大事だったのは「事実」ではなく、

それらを取捨選択してなり立ったところの「真実」だったといえる。

って、まあ、こういうふうに名指しで書けるところが

研究者のすごさですねえ。

 

歴史に事実はなく、

だれがどのような視点で書くかによって

多様な解釈の可能性があるというのが、

歴史家たちの常識のようです。

物語性抜きの厳密な歴史叙述などはもはやあり得ない

という意見が以前からあり、

歴史に「真実」ありと信じ込むのはナイーブに過ぎる

という見解が多数派だ。

人間って自分が信じたいことを事実として語りたがるようなのです。

いまのウクライナの戦争でも、なにがどこまで事実なのか。

このあとどんな歴史が語られるのか。

ナイーブなぼくはちょっと恐ろしく感じます。