生まれてからずっと京都に住んでいて、
京都のことはほとんど知りません。
先日も、暇に飽かして、とある企業の広報誌を読んでいて、
東一口
という地名を初めて知りました。
これ、
ひがしいもあらい
と読むんですって。
かつて巨椋池があった西岸堤防(大池堤)の上に築かれた細長い町で、
平安末期にはすでに「一口」(いもあらい)と呼ばれていたそうです。
いま読んでいる時代小説に、秀吉の求めに応じて、
朝鮮から使節が来日する場面があるんです。
朝鮮使節200人は堺で上陸して淀川を船でのぼり、
淀城の前を通ります。
その当時、一口はあったのですね。
このあたり、ぼくは行ったことがないので
地名を耳にすることもなかったわけですが、
巨椋池にはロマンを感じます。
小椋佳の椋と同じ字で、大きいのも小さいのも
「おぐら」って読むのが不思議。
椋という字はムクノキ、ムクドリを表し、
「ムク」と発音されるのに、なぜ「クラ」と読むのか。
実は「椋」という字を「くら」すなわち「倉」という意味で
用いることは、朝鮮半島で古くに生じたものであったことが、
出土した木簡や史書の記述などから判明している
と下のサイトに書いてありました。
dictionary.sanseido-publ.co.jp
おもしろいですね。
巨椋という名前にはワクワクさせられます。
京都南部にかつてでっかい水郷があった
ってことに郷愁と憧れを感じるのです。
太平洋戦争が始まる1941年には完了していたのですから、
池がなくなったのは、そんなに昔のことじゃないんですね。
東一口は、大正まで、北・東・南の三方が巨椋池に囲まれていて、
一口の集落へ陸路で行く出入口は西一方のみ。
また水路でも漁で巨椋池に舟を出す、ただ一つの出入口だったため、
一口という地名になったといいます。
ではなぜ「いもあらい」と呼ばれるようになったのか。
うめはらさんの日記は長いと嫌われるので、
またあさってに。