一口がなぜ「いもあらい」と呼ばれるようになったのか。
その由来については諸説あるそうです。
有力なのが、東京都千代田区にある「太田姫稲荷神社」、
旧名「一口(いもあらい)稲荷神社」の縁起を根拠にする説。
小野篁(おののたかむら)という平安初期の公卿が、
遣唐副使というお役目を断ったため、
この人、昼間は朝廷で官吏を、
夜間は冥府で閻魔大王の補佐をしていた
なんて伝説を残す異能の人だったようです。
で、隠岐の島へ渡る際、
荒れ狂う波間に白髪の翁が現れて言うには――
もし疱瘡(いもがさ)を患えば一命はおぼつかない
我が像を常に祀れ
ご神託というやつですね。
伏線もなしにいきなり疱瘡って、いかにも唐突に感じます。
2年後、罪を許されて帰京した際、
小野篁は一口(ひとくち)に稲荷を建てて手厚く祀りました。
(この一口は京都の一口でしょう)
以来、痘(いも)を払う(あらう)霊験あらたかな地として
「ひとくちのいもあらい」と呼ばれるようになっていったとか。
ちょっとこじつけ感いっぱいな気がする由来です。
話はまだ続きます。
痘瘡(いもがさ)を罹ったとき、
この一口(ひとくちのいもあらい)稲荷が大変ご利益があると聞き、
祈願したところ平癒したため、一口稲荷を江戸城に勧請したとあります。
これによって京の「いもあらいの一口(ひとくち)」は
全国に知られるようになり、いつしか一口と書いただけで
「いもあらい」と呼ばれるようになったとのことです。
疱瘡(いもがさ)は疱・痘(いも)ともいわれて、天然痘の古名です。
致死率が20~50%と高く、感染力が強いのでとても恐れられていました。
全国区にするきっかけをつくったってことですね。
それが京都の「ひとくちのいもあらい」を有名にしたっていうのは、
地名の逆輸入みたいなもんでしょうか。
もう一つの説は、「東一口村」が漁業集落だったことに関係します。
東一口村は巨椋池の七割を占有していて、
平安末期から特権的な漁業権を持っていたそうです。
漁民たちは漁の殺生を生業にしていることに罪の意識がありました。
その罪を浄化したいと切に願う「イミハライ」という言葉が、
「イモアライ」に変化し、地名として定着したという説です。
これもなんだかむりくりな感じがしますねえ。
結局、ああ、なるほど! と腑に落ちる由来は書けませんでした。
巨椋池の水辺で大勢の人が作業をしてる様子が、
「いもをあらう」みたいだったってことじゃないのかしら。
いまでは海水浴場が混雑する様を形容する言葉ですが……
巨椋池の辺りは漁業の他に蓮も有名だったらしく、
見頃となる7~8月には蓮見船でたいへん賑わったようです。
農道に面した洗い場(作業場)近くでは、
いまも蓮を育てている農家があるとか。
それと巨椋池干拓地の少し南に、かつて飛行場があったんですね。
これも知りませんでした。
京都飛行場、京都航空機乗員養成所があったそうです。
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以上、今回のネタの多くは第一工業製薬さんの広報誌からちょうだいしました。