今朝、大きな地鳴りがしました。
地震かと思ったけど、雷ですかね。
ずっと雨です。
さて、報道でガザの悲劇を見ていると、
もしもあの地にあの人がいま生きていたらと想像します。
お前は救い主なのになにもしないのか
奇跡を起こして我々を救ってくれ
と求められ、それが叶わないとなると、
一転非難され、鞭打たれるようになるのかも、と。
一神教の信者というのは、
なんであんなおとぎ話みたいなことが
信じられるのか謎でした。
病気を治したり、パンを増やしたり、水の上を歩いたり、
信者はそういう超常現象も含めて信じているのか。
その疑問に答えてくれそうだったのがこの本です。
遠藤周作というと
「同伴者」という言葉を思い出します。
同伴者としてのイエス。
どんな絶望の日にあっても、
自分に無限の愛を注いでくれる同伴者は
究極の自己肯定アイテムのようです。
キリスト者になるということは
そういう夢のアイテムを手に入れること?
と考えたりしました。
彼がなぜ救い主として
弟子たちに語り継がれるようになったのか、
その謎に迫ります。
イエスは無力の人であったとする見方は、
信心のないぼくにも共感できるものでした。
イエスは群衆の求める奇蹟を行えなかった。
湖畔の村々で彼は人々に見棄てられた熱病患者のそばにつきそい、
その汗をぬぐわれ、子を失った母親の手を、
一夜じっと握っておられたが奇蹟などはできなかった。
そのためにやがて群衆は彼を「無力な男」と呼び、
湖畔から去ることを要求した。
だがイエスがこれら不幸な人々に見つけた最大の不幸は、
彼等を愛する者がいないことだった。
人間にとって一番辛いのは貧しさや病気ではなく、
貧しさや病気が生む孤独と絶望だということを
イエスは知っていました。
必要なのは「愛」であって、
病気を治す「奇蹟」ではないのです。
人間は永遠の同伴者を必要としている。
自分の悲しみや苦しみをわかち合い、
共に涙を流してくれる同伴者を必要としている。
その同伴者が神であり、神の愛であることを
イエスは知っていました。
一方、イエスは現実の人間のことも知っていました。
病人は病気が治ることを、盲人は目が見えることを願います。
すなわちイエスの愛に「効果」を求めます。
しかし――
愛は現実世界での効果とは直接には関係のない行為なのだ。
そこにイエスの苦しみが生れた。
「汝等は徴(しるし)と奇蹟を見ざれば信ぜず」
と彼は哀しげにその時呟かれたのである(ヨハネ、四ノ四十八)。
かわいそうなイエス。
さらにイエスは最も身近な弟子たちにすら見放されます。
ペトロたち弟子はイエスを否定し、
イエスとは今後関係しないことを権力者に約束することで、
自分たちの身を守ったと遠藤周作は考えます。
そうでなくてイエスひとりが逮捕されたのはおかしいと。
我々と同じように卑怯で卑劣だった弟子たち。
しかしその弟子たちがやがて殉教も辞さぬ
強固なグループと変っていく。
それはなぜだったのか。
聖書のテーマの一つはそこにあるのだ。
イエスが十字架にかけられて死んでしまうことは
だれもが知っています。
病人を癒し、死者も生き返らせたのに、
刑場ではまったくの無力、無能の人でした。
自分の命ひとつ救うことができない存在です。
弟子たちもそのことを知りました。
彼等は当然、こういう疑問をもった。
イエスを神はなぜ助けないのか、
なぜあの苦しみに沈黙を守り、
あの死の苦悶にも眼をつぶっておられたのか。
もっともな疑問です。
そんな疑問を抱えた弟子たちが、
やっぱりイエスはただの人間だったのだと失望し、
期待を裏切られたことに怒り、
信仰を捨てるならわかります。
ところが、実際は違うのです。
なぜ現実においては弟子たちの夢や希望を
挫折させた師が、その弟子たちから死後、
逆に愛のメシヤとして仰がれるようになったか
と著者は問います。
うんうん、なんでなんで?
なんで普通の人間みたいに死んでしまったのに、
イエスを救い主としてあがめるのか。
決定的な何かが、そこに加わらなければ、
弟子たちは結束し、信仰に燃え、
多くの異邦人の国々に旅する筈はないのだ。
決定的な何かが加わらなければ、
あれほど師について理解少なかった弟子たちが
師の本当の教えを知る筈はないのだ。
と著者はたたみかけます。
そう、そう!
その「決定的な何か」って?
ぜひそこが知りたいと思いますよね。
なにか、弟子たちの心を根底から覆すだけの衝撃的なものが
イエスの死の前後起ったと考えるのが、
この謎を解く方法の一つのように私には思われる。
うん、だからなに?
なにが起こったん?
どんな衝撃的な出来事があって
弟子たちが強い信仰を持つにいたったの?
さあて、お立ち合い!
ここから先、その答えが知りたけりゃ、
この本を読みなよ~~
納得できるかどうかはあんた次第だよ~~
ということで終わっときましょう。
毎日、神棚と仏壇に手を合わせているぼくは、
不信心ではないけれど、
信仰があるとまではいえません。
そういう人間からすると、
この一文は暗号のように感じました。
だが我々は知っている。
このイエスの何もできないこと、無能力であるという点に
本当のキ リスト教の秘儀が隠されていることを。
そしてやがて触れねばならぬ「復活」の意味も
この「何もできぬこと」「無力であること」を
ぬきにしては考えられぬことを。
そしてキリスト者になるということは
この地上で「無力であること」に自分を賭けることから
始まるのであるということを。