昨日の朝は、この冬初めて雪が積もりました。
寒おすなあ。
今日は雪こそ降ってないけど、寒い!
ぼく、人間は冷たいっていわれますけど、
からだはあったかいんです。
それでいうと自動的に思い出すことがあります。
小学校に上がる前、父に連れられて
銭湯に行くときのことです。
うちの近所(西木屋町四条下がる)には、
鴨川に架かる団栗橋(どんぐりばし)の近くと、
四条から北の西石垣(さいせき)あたりと、
銭湯が二か所あって、
父と行くのはいつも西石垣の旭湯(?)でした。
どちらも家から歩いて5分くらいです。
清酒アケゴゴロ
というネオンがまたたいてました。
酔客が通る夜道は屋台が出ていて、
サザエのつぼ焼きの香りが漂います。
父はぼくの手を引いて、
あったかい手ぇしてんなあ
とよく感心したもんです。
ぼくはほめられたみたいで幼心にうれしかったです。
ぼくは父が45歳のときの子どもなので、
お孫さんですかとよく訊かれたそうです。
父はいまでいうシビルエンジニア、
街のインフラをつくる土木技術者でした。
家で仕事の話は一切しなかったけど、
鴨川にかかる橋のどれかは父の設計だと親戚が話していました。
母は父の10歳下で、
父はよく母のことを「この子はなあ」と話してました。
そのくらい幼く感じていたのでしょう。
父は口数は多くないけど皮肉屋で、
ときどき口を滑らせて、
ひとが嫌がることを言うくせがありました。
悪気はないものの、ひらめいたら黙ってられなくて、
とっても癇(かん)に障ることを言うんです。
母は四条大宮にあった乾物屋の末娘で、
わがまま勝手に育って気もきつかったので、
年下とはいっても父にはいつも強気でした。
大みそかの夜は必ず父が責められます。
母はお煮しめをたいたり、頭芋をゆでたりして、
好きでもない台所仕事に忙殺されて、
大好きな紅白歌合戦も見てられません。
気の立っている母はキレやすくなっています。
そういうところに、最悪のタイミングで、
父が母を茶化したようなことを
言ってしまうのだと思います。
大みそかの夜、父は祝箸の袋に
家族の名前を書くくらいしか用事がなくて、
(あと玄関に国旗を掲げるのが好きでした)
大みそかの母の爆発を一手に引き受けていました。
口答えをすると母の怒りに火を注ぐことになるので、
なにを言われてもうつむいて新聞を読んで、
胡坐をかいた足の間にのぼってくる猫の相手をしていました。
大みそかに限らず、父は家ではいつも和服です。
仕事から帰ったら着替えるんです。
冬だったらパッチと足袋をはいてたでしょう。
あの頃は暖房といっても火鉢しかありませんでした。
ガスコンロで炭に火を起こして火鉢に移します。
そこでお湯を沸かしたり、お餅を焼いたりしてました。
我が家がアラジンの石油ストーブを買うまで
暖房器具はそれしかなくて、
冬はほんとに寒かったと思います。
だからこそぼくの手はよけい温かかったのでしょう。
電気はといえば、家にコンセントというものがなくて、
こんな感じで、天井の電灯につけた二股ソケットから
電線を引っ張って、電気製品を使っていました。
寒い寒いと思うけど、昔はもっと寒かったはず。
そう思ってこの寒波を耐えることにしましょう。
寒くてもぼくの心臓はあったかい血を送り出してくれてます。
心臓だけは丈夫なので、ほかの病気で死ぬときは
どなたかにもらっていただきたいくらいなんです。