うめはらなかせの日記みたいな掲示板2

アコースティックギターの前にすべての曲は平等である

ジャニーズとこの世の春

いつも単独ライブでお助けいただいている

うらないしさんが絶賛されてたので

読んでみました。

 

この世の春

江戸時代のとある小藩を舞台にした

サイコミステリーとのことです。

文庫本3巻、およそ1000ページもの物語を、

最後まで紡(つむ)いでいく、

その原動力はどこにあったのでしょうか。

「この世の春」という、ミステリーに

ふさわしからざるタイトルの理由は?

 

宮部みゆき作品はどれも読みやすいです。

抜群のストーリーテリングで、

最後まで一気に読ませます。

そこはお約束どおり。

時代小説に時々感じる取っつきにくさはありません。

身分や役職の上下関係のなかで成り立つ

人々の挙措、ふるまいがどうあるかまで、

よく調べて書かれています。

 

いかにも宮部みゆき作品らしい、

健全でクリーンな世界でした。

登場人物はいい人ばかり。

敵役の忍者たちも、自分たちの権益が侵されたがため

非道な手段とはいえ、組織防衛の行動に

反射的に出たといえなくもありません。

 

物語の舞台は北見藩という、

下野国(しもつけのくに/現在の栃木県)の架空の藩。

若き藩主は奇矯な行動をとったことから

家臣によって無理やり隠居させられます。

その奇矯な行動の原因ともいえる、

幼少期に受けた性加害にすべての謎があります。

 

文中には幼君を苛(さいな)む行為とありますが、

具体的にそれがどんなことかは書かれません。

書けば宮部ワールドが壊れてしまうのかもしれません。

そしてそこを書かずとも、この作品は成立しているのです。

それでよしとするのか、食い足りないと感じるかは、

読み手の好みの問題といえます。

 

幼い男子への性加害といえば、

いまの時期、ジャニーズ問題を思い起こします。

多くの被害者数が推定されているのに比して、

名乗り出る人が少ないのは、

一(いつ)に被害の性質にかかっています。

被害者がその経験を「恥」と捉えていることが、

表沙汰にされない理由として大きいのでしょう。

性加害そのものに恐怖、怒り、屈辱を

感じる一方で、被害者がああろうことか、

己の共犯意識を、自身で疑ってしまうケースもありえます。

みだらな行為をはからずも受け入れたことによって

一瞬でも自分は快楽を得たのではないか、

そこに思いを致した被害者が自身に向ける嫌悪感は

相当に深くて重いものになるのではないでしょうか。

その自己嫌悪、加害者との共犯意識への疑念までもが加わって、

被害者の精神をむしばむのだと思います。

 

それほどの傷を受けた人が、どのように癒しを得て、

新たに生き直していくのか、

ちょっとぼくには想像の彼方のことでした。

そこのリアリティが読んでいて感じられなかったことが

食い足りなさの要因かもしれません。

 

そもそもが呪術という非現実的なワザが

物語の根幹にあるので、すでにファンタジーです。

山田風太郎の作品もファンタジーなんですけど、

あそこまで絵空事に振ってしまうと逆に心地いいといえます。

それに山田風太郎の場合は実在の人物を登場させて、

嘘くささを中和させてる感があります。

そこまで絵空事とはいえず、さりとて現実的ともいえず、

そのバランスのほどよいところがどこにあるかは、

読み手によって違うなのでしょう。

それを思うと、日常の世界にある商品名や人名を

バンバン出して現実感をちりばめつつ、

徐々に不穏な雰囲気を醸し出し、

一転、非日常の恐怖世界に突き落とす

スティーブン・キングはすごいと思います。

 

タイトルの「この世の春」――。

一般に「我が世の春」とはいいますが、

「この世の春」はあまり聞きません。

このタイトルには、

「生きていれば、この世には必ず春が巡り来る」

という意味が込められているのだそうです。

心正しく生きる人には、

きっと胸を打つ物語なんだろうなと想像しつつ、

心に汚いところ、弱くてずるいところを含みもつぼくには、

きれいすぎた小説だったのでしょう。

ああ、そうですかというしかない世界でした。

 

ただし、物語はハッピーエンドながら、

藩を揺るがした真の黒幕に追及の手が及ぶことはありません。

藩の存続のためには、すべてを明るみに出すことなく、

穏便に「ことなかれ」でフタをしておこうという、

登場人物たちの判断は、大いにオトナな落としどころで、

そこはリアリストのぼくも大いに納得がいきました。