うめはらなかせの日記みたいな掲示板2

アコースティックギターの前にすべての曲は平等である

読んでイスタンブール

トルコで最も読まれている女性作家なんだそうです。

女優さんみたいにきれい。

容姿は関係ないですけどね。

digitalcast.jp

レイラの最後の10分38秒

を読みました。

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主人公のレイラはイスタンブール暮らしの長い娼婦で、

冬の日の明け方、死体となって路地裏の大型ゴミ容器に棄てられている。

心臓の鼓動が止まり、呼吸も途絶えたというのに、

どういうわけか意識はまだある。

というような出だしで始まります。

 

タイトルの「10分38秒」ってのが気になりますよね。

実はこれ、人が死んだあとも脳の活動は持続している

という最新の研究成果に基づいているんです。

 

カナダの集中治療室勤務の医師らの報告によると、

臨床死に至ったある患者が、生命維持装置を切ったあとも

十分三十八秒間、生者の熟睡中に得られるものと

同種の脳波を発しつづけたという。

 

ならば主人公が亡くなってから10分38秒の間、

人生を振り返るなかで物語を展開できないかと、

作者は考えたのでしょう。

 

主人公はそこそこ裕福な家庭に生まれますが、

尋常ではない家族関係のなかでやむにやまれぬ状況に追い込まれ、

娼婦へと転落していきます。

それはイスラムだから起こる問題と、

(強固な家父長制で、妻は複数持てるとか)

どの国であっても起こりうる問題、

(性暴力とか女性への差別や抑圧)の両面あって、

そのなかで彼女は心に苦悩を抱え、

イスタンブールへ落ちのびていきます。

 

トルコは女性に参政権があるものの、

女性に対する差別構造が固定化した社会のようです。

たとえば婦女暴行の容疑者は、

被害者が売春婦であることを証明できたら、

刑期の3分の1が減免される制度が

1990年まであったんだそうです。

ちょっと驚きです。

その理由は、

“売春婦の精神または身体の健康が強姦によって悪影響を被るとは考えにくい”

というもので、これは一方的に加害者の側に都合のよい、

被害者をさらに鞭打つような、ひどい差別意識です。

 

トルコはイスラム教国であり、

政教分離世俗主義の国でもあります。

古くからの宗教的価値観と近代合理主義がぶつかり合うところに、

いろんな矛盾や軋轢が生じ、

女性をはじめとする社会的弱者が虐げられます。

そんななかでも主人公は魂の自由を保ち、

同じように虐げられた者たちにあたたかく寄り添います。

いつしか彼女のまわりには固い絆で結ばれた5人の友が集まっていました。

みんな、社会のはみ出し者たちです。

 

一方で、差別し、抑圧する側の人々、たとえば主人公の父親は、

それなりに娘や妻を愛してはいるのですが、

自分に染みついた宗教や社会的な規範から逃れることはできません。

抑圧する側もされる側も、どちらも不自由を強いられています。

 

宗教というのは本来、だれか天才が新しい理念を打ち立て、

その理念のもとにさまざまな価値観や規範を設けて、

それらが守られることで、現世を生きる人々が、

少しでもハッピーになれるように導くものなんだと思います。

ところがそういう普遍的な「共通ルール」は、

土地土地の俗習によってからめとられていきます。

土俗化していきます。

元のルールにはいろんな解釈が加えられ、

だれか力をもった人にとって都合の良いように書き換えられていく。

その過程で、多くの弱者が犠牲になるのでしょう。

 

登場するのは娼婦、トランスジェンダー、難民、DV被害者など。

そしてもうひとつの「登場人物」はイスタンブールという大都会でしょうか。

(作中では「イスタンブル」と表記されます)

エド・マクベインの「87分署シリーズ」で、

架空のアイソラ市(ニューヨークがモデル)が、

時に性悪女のように擬人化されて描かれたように、

本作ではイスタンブールがいろんな顔を見せます。

猥雑さであったり、歴史や文化の堆積であったり、なんじゃかじゃ。

さすが元東ローマ帝国コンスタンティノープルです。

 

おいしそうなトルコ料理がたくさん出てきます。

時は刻々と過ぎていき、レイラの心は

大好きな屋台料理の味を幸せな気分で思い出していた。
イガイのフライ――材料は、小麦粉、卵の黄身、重曹、胡椒、塩、

そして黒海から獲れたばかりのイガイだ。

これって、カキフライみたいな味なんやろかと想像します。

 

ラストは、そんなイスタンブールを舞台に

5人の親友たちが大活劇をくり広げます。

映画化されたら面白いだろうなと思いました。

5人のなかのひとりの心のつぶやきが印象に残ります。

自分が早い時期からレイラを愛していたことに気づく場面です。

 

だれかの苦悩を自分のもののように心に抱くことが愛でないなら、

何を愛というのか?

 

作者はまず英語で執筆してからそれを第三者トルコ語に訳してもらい、

さらに推敲するというかたちで小説を書いているそうです。

そうでもしないと対象との距離がとれず、

それに自分がからめとられてしまって、

書けなくなってしまうからでしょうか。

現在はイギリスで暮らすという作者が、

トルコ、イスタンブールの現状に苦悩し、嫌悪しつつも、

同時に両者を愛していることを告白したかのような一文に思えました。