いま大河ドラマ「光る君へ」をやってるので、
この本は3割増しで面白かったです。
登場人物は「光る君へ」のキャストでいうと、
定子 高畑充希(みつき)
一条天皇 塩野瑛久(あきひさ)
伊周 三浦翔平
……などなど。
役者の顔を思い浮かべながら読みました。
枕草子のたくらみ
時の最高権力者、藤原道長は定子を敵視していました。
娘の彰子(しょうし)を入内(じゅだい)させ、
次期天皇の外祖父となることを狙っていたからです。
天皇の寵愛を受ける定子は邪魔な存在でした。
なのになぜ、定子を称える枕草子が
抹殺されず、生き残ることができたのか。
その問いからこの本は生まれました。
彰子を12歳で入内させた道長が、
定子をいじめたことはよく知られています。
定子の重要な行事があるのと同じ日に宴を催し、
有力貴族が参列できないようにするとか、
定子を補佐する職に就きにくい人事をするとか、
定子の側近を引き抜くとか。
「道長方に内通している」と噂を立てられ、
一時は定子のもとを離れて引きこもります。
しかし、定子の清少納言に対する信頼は揺らぎません。
「早く戻ってきてね」という文とともに、
清少納言の好きな紙(当時はとても高価)を贈ります。
その紙で、この引きこもり時期に書かれたのが
枕草子なんだそうです。
仲良く接していますが、
枕草子は現実を無視して、
ことさらに風流ばかりを拾い集めたもので、
「あだ」、つまり嘘である、と。
才女同士なので互いをライバル視して
仲が悪かったのでは? と想像できますね。
でも、そうではないと作者はいいます。
清少納言の周辺に起こった何か過酷な事情を、
同じ時代を生きた紫式部は知っていた。
そして彼女の常識で判断する限り、その過酷さは、
風流だの趣だのの入り込む隙などない絶望的なものであった。
美や光や笑い、感動やときめきばかりを書いた。
「過酷さ」とは定子の身に降りかかる災厄をいいます。
藤原道隆の娘に生まれ、入内(じゅだい)し、
一条天皇に愛されて子を産むまではよかったけど、
父は早々に亡くなり、
兄の伊周(これちか)は事件を起こして没落。
天皇のほか頼る者とていない定子は、
叔父の道長に排除され、非業の死を遂げます。
そうした状況で書かれたにもかかわらず、
あの「春は、あけぼの」で始まる枕草子の雅びやかなこと、
その明るさはどうしたことでしょう。
紫式部が違和感を唱えるのも筋違いとはいえない
と作者は書いています。
権謀術数の渦巻く中にありながら
日常の些細な事柄ばかり描いているように見えます。
それこそが「枕草子のたくらみ」なのだと
作者はいうのです。
へーーー、それってどういうこと?
と気になる方はどうぞお読みください。
ネタバレになるので書きません。
枕草子の原文や和歌には必ず現代語訳がついて、
難しい人名や役職名などにはルビが振られているので、
読みやすいです。
ドラマでは定子の兄の伊周がすごい形相で
「子を産め」と迫りますが、
枕草子にあるふたりはとても仲が良くて、
しかも和歌や漢詩の教養が深いので、
それらを引用し合って日常会話をしている様に
清少納言が圧倒される場面も出てきます。
ちなみに清少納言は康保3(966)年生まれ
という説が有力で、そうすると、
道長とは同い年、定子よりも10歳、
紫式部より7歳年長だったとされます。
歌の家に生まれながら、
高名な歌人である祖父や父とは比べるべくもなく、
才がないと自認している清少納言は
歌を詠めと命じないでほしいと願い、
宮仕えはやめてしまいたいと思うくらい、
自信のない人でした。
ところが――
清少納言は、定子の前では輝くことができた。
定子が清少納言に機知の才を見出し、
彼女の形で清少納言を導いたからである。
10歳も若い定子が、自分の個性を引き出し、
引き立ててくれました。
感謝と尊敬しかなかったでしょう。
1000年後も読まれ続ける作品へと昇華させます。
枕草子でほぼ触れられなかった
一条天皇と定子の運命は悲しくて、
源氏物語にも大きく影響しているのですね。
定子は念願の第三子を身ごもりますが、
女児を出産した床で崩御します。
享年24歳。
このとき一条天皇は21歳。
それでも即位して14年がたっていたのですね。
妻の死に心が張り裂け、
取り繕うことができないほどの悲しみを吐露します。
過酷としか思えない状況のなか、
百も承知で清少納言は、
笑い、感動、ときめきを集めて書き記します。
悲しい時こそ笑いを。
くじけそうな時にこそ雅びを。
「たくらみ」を成就させるために、
歯を食いしばって顔を上げる、
清少納言の凛とした姿が想像できるようです。
本題とあまり関係はないですが、
一条天皇の愛の苦悩、
妄執ともいえる定子へのこだわりは、
恐ろしいと感じるほどでした。
それがどれほどのものかはここに書きますまい。