うめはらなかせの日記みたいな掲示板2

アコースティックギターの前にすべての曲は平等である

こころときめくものに迫ったフィンランド女性

この本が紹介できるのは喜びです。

読んでいる間はずっと旅をしているようでした。

本の著者と、セイと。

 

セイとは、清少納言のこと。

まるでロードムービーを見ているような自伝紀行文学です。

読み終えて、旅を終えたみたいに、ちょっとほっこりして、

著者がたどりついた場所、その景色を想像して、

さびしくて、またこの本の世界に戻りたいと思える、

そんな読後感でした。

 

清少納言を求めて、フィンランドから京都へ

原書のタイトルは『枕草子』の章段から引用された

『胸がときめくもの』(「こころときめきするもの」?)

だそうです。

ふさわしいタイトルです。

 

著者のミア・カンキマキという人は、

フィンランドの作家でエッセイストです。

大学時代に枕草子に出会って以来、清少納言の大ファンで、

心のなかで友だちのように「セイ」という愛称で呼んで、

清少納言を、自分の人生の伴走者、

同行者として30代後半を歩みます。

編集者として働いていた2010年に長期休暇をとって、

そこから2012年にかけて京都に都合1年ほど滞在して

清少納言の足跡をたどりました。

その時の体験をつづったのがデビュー作のこの本で、

出世作となりました。

単なる紀行文ではなくて、セイと対話しながら、

日本文化、文学、いろんなことを、

そして自分を発見していく物語になっていきます。

 

一粒で二度おいしいといいますが、この本はいろんな楽しみ方ができます。

1.清少納言枕草子、日本の古典文学を教わる(ムラサキのことも)

2.京都のいろんな名所や文化について教わる

3.外国人から見た日本がわかる

4.日本に長期滞在する外国人旅行者の生態がわかる

5.東日本大震災原発事故を外国人がどう受け止めたかがわかる

 

いろいろ興味深くて、読んでいて楽しかった。

今年読んだなかで最高の本かも(まだ半年以上あるけど)。

何度も声を上げて笑いました。

京都人にとっても発見だらけです。

だって、この町ほど寒いと感じるところはないから。

氷点下三十度を下回る私の国ですら京都ほどじゃない。

と語っていて、へーーと思わせられます。

だけど、彼女が滞在した外国人向け施設はすごいボロ宿みたいなんです。

 

著者は京都だけでなく日本の各地を巡っていて、

屋久島の露天風呂に入るエピソードなんてのもあります。

おっさん注視の中、よう混浴温泉に入るわと感心しました。

 

そう、彼女は無謀ともいえる研究者なんです。

だって日本語は話せないし、読めないし、

それで枕草子研究なんて、大胆過ぎません?

なのに、彼女は最後まで行きつくんです。

清少納言の手がかりを見つけることに苦労しながら。

枕草子の原本は散逸し、御所も当時とは違うというのに。

必死でセイの足取りを探したけれど、

それはほとんど不可能に近い試みでした。

だけど、彼女の感性と直感にはハッとさせられます。

 

日本で学んだいちばん大事なことは、

散った花は散っていない花と同じくらい

美しくて意味があること。

あああ、そうかあ、そうして言葉にされると、

ぼんやりとした日本精神の芯に触れられた気がします。

 

著者は初めて英語で枕草子を読んだとき、

清少納言のユーモアのセンスや心情描写に引かれたといいます。

うわさ話や、珍しいもの、美しいものなどの「ものづくしリスト」は、

千年前の女官の話なのに、驚くほど身近だったと。

日本人にしかわからない日本独特のことなんて

そんなものはひとつもないってことを彼女は教えてくれます。

 

最後に「もののあはれ」についての彼女の洞察を紹介します。

一度別の脳を通過して咀嚼された言葉の新鮮なこと。

それはもうおみごと! というほかありません。

 

もののあはれはこの世の美とその儚さに触れて感じる心であり、

ものの漠然とした、でも圧倒的な哀しみのこと。

多分、私はもののあはれをおぼろげながら感じとったのだと思う。

それはきっとまさにこの桜のこの世のものではない美しさのことであり、

美は一瞬しか持たないという情報のことであり、

それはすぐに過ぎ去ってしまうことなのだ。

でも、過ぎ去ってしまう前にそれを体験すると

(同時にその儚さに気づくと)、胸が張り裂けてしまう。

感じとった心をどうやっても正確につかめずに、

魂の深淵から「ああ」と叫ぶしか表しようがないから。

多分この儚さに敏感であることこそが、

他の何よりもこの文化において私が共感するところなのだと思う。