疑わしきは罰せず
裁判員はさぞ悩まはったことでしょう。
限りなく漆黒に近いグレー
という文句が浮かんで、村上龍を思い出しました。
ぼくも裁判員に指名されたら国民の義務やし、
引き受けんとあかんかなと思うてたんですけど、
70歳以上は辞退できるそうですね。
なかせさんは絶対辞退しそう。
殺人事件の現場写真、よう見ませんいうて。
さて、昨日のなかせさんの日記にあったように、
小倉山荘ってせんべい・おかき専門店があります。
なかせさんもひいきにしたはります。
割れおかきお徳用袋とか特に。
小倉山荘といえば百人一首。そして、
と思っていたら、最新の研究では違うのだそうです。
(ここからは長いので興味があればお読みください)
「小倉山荘」の「時雨亭」で定家が「百人一首」を撰び、
一〇〇枚の色紙に揮毫(きごう)し、
それを小倉山荘の障子に貼ったという言説が後世に形成され、
その定家イメージが表象されている。
しかしこれはどれも事実ではない。
実際には、定家の山荘は当時「小倉山荘」とも
「時雨亭(しぐれてい)」とも呼ばれておらず、
晩年の定家はこの荒れた山荘に殆(ほとん)ど行かず、
(中略)
また定家が撰歌・揮毫した場はおそらく山荘ではなく
本邸の一条京極邸であり、さらに色紙は
定家の山荘の障子に貼られたものではなくて、
蓮生(れんしょう)の山荘の障子に貼られた(押された)ものであり、
その色紙は一〇〇枚ではなくてもっと少なく、
歌仙絵(かせんえ)は当時はなく、
しかも定家が撰んだのは「百人一首」ではない……。
世間では史実にないことがずっと信じられてきたんです。
ちなみに障子とあるのはいまでいうふすまのこと。
歌仙絵はカルタに描かれてるみたいな絵のことです。
蓮生(れんしょう)は定家の友人であり、親戚であり、
頼るべき鎌倉幕府の有力者でした。
実は1951年、50年以上前に、
定家が編んだとみられる「百人秀歌」
(ひゃくにんしゅうか)という歌集が発見されました。
収められた101首のうち97首が
百人一首と重なることがわかり、
これが百人一首の原型ではないかと考えられました。
けれども百人一首は定家が撰者だという説が、
すぐに変更されることはありませんでした。
藤原定家=撰者説があまりに広く流布していたため、
大っぴらに異を唱えるのがはばかられた(みたい)。
学者さんにとって定説をひっくり返すって、
すんごい勇気がいることみたいです。
百人一首が定家作(選)ではない最大の理由は、
百人秀歌にはない、後鳥羽院・順徳院の2首が
百人一首にあることです。
百人秀歌は、定家が蓮生(れんしょう)に、
私的な贈り物として編んだものです。
自分の好きな曲を集めたカセットを
友だちにあげるみたいなもんですか。
幕府に反旗を翻したふたりの院の歌を、
幕府に近い人へのプレゼントに入れるはずがない
ということです。
それは京都の宮廷で官人として生きる定家にとって
立場的にやばいことなんですね。
だとしても百人一首のほとんどを選んだ定家の功績が
色あせることはないと筆者はいいます。
そもそも100人の歌人から1首ずつ選んでひとまとまりにする
という発想からして画期的だったんだそうです。
(1人が歌を100首詠むという発想はあったそう)
しかも歌選びについて定家は、
次の8つの条件を課しているのです。
①古代から王朝時代、中世前期までの約六〇〇年にわたる歌を選んで、
和歌の歴史を流れるように語る。
②古(いにしえ)からの和歌のレトリック及び
歌枕(うたまくら)を詠む歌を数多く入れる。
(歌枕:和歌の題材とされた日本の名所旧跡のこと)
③九集の勅撰集からあまねく採入して、それぞれの勅撰集に敬意を払う。
④部立(ぶだて:歌の分類)の点では春夏秋冬恋雑の歌を入れ、
しかもその中の四季や恋の時のうつろいも、
時間的に偏ることなく取り込んで、
森羅万象や人のこころのすべてを奏でてみせる。
⑤著名歌人だけではなく、さほど知られていない歌人も多めに入れて、
彼らを含めて和歌世界が構成されていることを示す。
⑥和歌と歌人を二つの基軸として撰歌し、
その中には歌人たちの人生を端的に浮かび上がらせるような歌も入れる。
⑦恋歌人の男女比は、ほぼ勅撰集に準じた比率になるようにする。
⑧歌風の面で、優美な歌、絢爛(けんらん)たる歌、
直情的に心情を詠む歌、寂寞(せきばく)とした歌、
伝承的な歌、物語的な歌、繊細幽寂(せんさいゆうじゃく)な歌、
季節の本意を強く示す歌、鮮明な景を詠む歌、当意即妙の歌、
言語遊戯的な歌、流麗な音調の歌、象徴的な歌、
不遇述懐の歌(不遇を嘆く歌)、
男性による女歌、女性による男歌など、
多種多様な歌を幅広く選び入れる。
これだけの多面的な要素を取り込みつつ100首に収めるのは、
並大抵の技ではないと筆者はいいます。
ほんまやなあ。
麻雀のリャンハンしばりどころやないです。
その後、百人秀歌は何者かの手によって再編集され、
江戸時代に大ブレークします。
歌の配列を変え、最後に後鳥羽院・順徳院の歌を入れて、
劇的な構成を作り出した百人一首の撰者も、
かなりの教養豊かで手練れの編集者だったと思われます。
百人一首が庶民にまで広まったのは、
その謎の編集者のおかげとのことです。
結果として百人一首は和歌を通じて
日本人の心を育んでいきました。
散る桜を愛で、秋の夕暮れに寂寥(せきりょう)を感じ、
恋の心のうつろいやはかなさに魅惑され、
同音異義語の掛詞の韻律に心躍らせるなど、
『古今集』以来の古典和歌で培われた美意識は、
その少なからぬ部分が現代にまで継承されている。
それには『百人一首』の浸透も大きく寄与したに違いない。
現代のぼくらが散る花を見てはかなさを感じたり、
同音異義語のダジャレを楽しんだりできるのは、
定家と、いまだ不明の名編集者のおかげなんですね。
百人秀歌も百人一首も歌には番号が振られているんです。
なんで順番がわかるかというと、
1冊の本になってるからなんですね。
カルタみたいにバラバラだったらわからないことでした。
ともかく定家が小倉山荘で百人一首を選んでなかったとしても、
小倉山荘の割れおかきのお得袋の値打ちが下がることは
決してありません。
われても末に食はむとぞ思ふ~