うめはらなかせの日記みたいな掲示板2

アコースティックギターの前にすべての曲は平等である

恋の奴隷か~シンプルな情熱

あなた好みのォゥォゥ

あなた好みのォゥォゥ

女になりたい~♪

奥村チヨの歌声が頭の中で響きました。

 

あなたと逢ったその日から 

恋の奴隷になりました

ってことが人生にはあるのです。

 

シンプルな情熱

もう70を過ぎたじいさんに、

恋とはなんなのか

と考えさせる小説です。

2022年にノーベル文学賞を受賞した、

アニー・エルノー自身の体験を綴った自伝的短編。

パリ五輪開会式の図書館での無言劇で

タイトルが映し込まれたほどの有名な作品、

らしいです。

 

主人公がポルノ映画を見る場面から始まります。

ゲピエールってなに?

と思いました。

調べたら「ガーター付きビスチェ」となっていて、

今度はビスチェがわかりません。

写真を見てようやく、ああ、こういうのかって。

(実生活では見たことありません)

 

内容は――

離婚後独身でパリに暮らす女性教師が、

妻子ある若い東欧の外交官と不倫の関係に。

彼だけのことを思い、逢えばどこでも熱く抱擁する。

その情熱は口マンチシズムからはほど遠い、

激しく単純で肉体的なものだった。

 

「シンプルな情熱」の「情熱」(パッション)という言葉、

積極的で前向きなイメージを感じるんですけど、

Passionと頭文字を大文字にして書くと、

イエス・キリストの「受難」を意味するそうで、

語源からすると「情熱」(パッション)は、

受け身の状態で、かつ苦しみを表す言葉なのですね。

小説のなかでは「恋情」(パッション)の訳で何度も登場します。

シンプルに肉体的で、かつ待つ身を焦がす、

受け身の恋情が延々と語られます。

 

自己の内側から自発的に湧いてくる力ではなく、

外から自分に取り憑(つ)いて、

自分を虜(とりこ)にする力だと理解したほうがいい。

「恋に燃える」というのも、解放された状態ではなく、

囚われの状態に入ることなのである。

 

と「訳者あとがき」にありました。

恋はふいに向こうからやってきて、

自分を組み伏せてしまうもの。

恋は受難ではありながら、

それは極上の贅沢でもあります。

恋の奴隷になっても悔いない強さを、

作者は示します。

 

この文庫、たった166ページしかなくて、
しかも、小説だけだと110ページまで。
あとは「訳者あとがき」と斉藤由貴による解説なんです。

で、斉藤由貴の解説がまた、

ほれ、いろいろとあった人ですから、

そんなあけすけに共感していいの? 

と老婆心ながら心配してしまいます。

 

小説の主人公は作者その人です。

50歳(40代後半?)頃でしょうか。

アラン・ドロンに似たところのある、

長身でブロンドの髪の38歳の男に

作者は身も心も奪われます。

(発表当時の近影で見ると51歳の作者は美人です)

 

知的で冷静な作者が、最も軽蔑しそうに思える男に、

片時も相手を忘れられないほどの恋をします。

恋に囚われた主人公は、

ただただ男を待つ受け身の女として生きます。

彼に好かれる下着を買い、

彼からの電話を待ち焦がれます。

そんな自分を赤裸々に、偽りも誇張もなく(と思います)、

ありのままに描いています。

というより告白しています。

なぜそこまでするのか。

 

ルノーの言葉に、作家が小説を書くことの意味、

読者がそれを読むことの意味を理解するヒントがあります。

 

私の人生の各時期に、非常に印象深いことが起こります。

けれども、その時すぐには、私は理解できないんです。

書くことで初めて、理解できるんです。

書くと、ふだん私の生活に欠けている現実感が得られるんです。

起こったことを全部書いて、さらけ出していくとね。

確かに、私にとって書くことは、ある意味で、

現実からできるだけ多くの意味を引き出すことです。

本には、人々を、その人々の生活から遠ざける本と、

その生活へ連れ戻す本があります。

私にとっては、これはもう考えて選択するような問題ではありません。

私には、人々を彼ら自身に立ち戻らせたい、

そういう思いがあるんです。

本を読むのは、私にとってはいつも、

自分の生活を違う目で見られるように

説明してくれる何かを探すことでした。

 

恋の渦中にあるうちは、

自分になにが起こっているのかはわかりません。

あとになってそれを書きとめるうちに、

だんだんと見えてくるものがある。

その見えてきたものは、

作者とは別の人生を生きている読者(男女問わず)にも

役に立つものなのですね。

 

恋とはなんと不思議なものだろう

斉藤由貴は「解説」で語ります。

 

恋は確かに、無意味なものかもしれない。

けれどその無意味に魅入られて意味を探してしまう事、

その愚(おろ)かしさを、一体誰が責められようか?

 

斉藤由貴が発した言葉だと思うと味わいが増します。

恋には意味はない。

意味はないけれど、一度それを体験すると、

世界の見え方が変わってくる。

恋という不可解な体験(贈り物)への返礼に、

書かれたのがこの小説です。

 

こういう発想は女性しかしないかもと思いました。

(実際、そこに男女差はないかもしれないけど)

小説の主人公は美術館で、

ミケランジェロダビデ像の前に釘付けになります。

 

男の身体の美しさを崇高な表現で顕示したのが

ひとりの男であって、

女ではなかったということに、

痛切なまでのショックを受けたからだった。

 

女である自分が吸い寄せられた男の体、

自分がむさぼるように愛した男の細部を、

男よりも理解していていいはずの女が、

描いていないことに主人公はショックを受けるのですね。

 

同じように、私は、クールベのあの絵、

『世界の起源』というタイトルのあの絵ほどにも

曰くいいがたい感動を引き起こす作品が、

女性の手になる絵画にはないことを、残念に思った。

 

クールベのあの絵」って?

”なか倫”があるので、ここに引用できません。

19世紀のもっともスキャンダラスな絵画といわれた「あの絵」。

興味のある方は検索してみてください。

  ↓

ギュスターヴ・クールベ《世界の起源》(1866)