うめはらなかせの日記みたいな掲示板2

アコースティックギターの前にすべての曲は平等である

えこひいきの定家

20歳のころから日記をつけて半世紀。

1日も欠かさず書き続けていると、

やめられなくなるもんです。

自分の人生に空白(自分がなにをしたかわからない日)が

生じるのが怖いというか。

でもたいがいの人は、何年前の何月何日、

なにをしてたかって訊かれて、

答えられなくても平気なんですよね。

(それが不思議)

 

藤原定家『明月記』の世界

「明月記」は、平安末期~鎌倉前期の公家、

藤原定家書き続けた日記です。

数え年の19歳から亡くなる6年前の74歳まで

55年の長きにわたって日記をつけていました。

ぼくも死ぬ間際までつけてそうな気がします。

定家と比べちゃ畏れ多いけど。

 

藤原定家、古文や日本史では

「ふじわらのていか」と習いましたが、

とくにルビは振られていませんでした。

百科事典では、次のように。

正式には「さだいえ」だが音読されることが多い。

 

藤原定家百人一首をつくった人、

くらいしか知らなかったです。

宮廷人、文人というイメージから学者肌の物静かな人、

と思ってたらそうじゃないみたい。

とある一日、彼が移動した記録を

著者は日記から拾いだします。

総計およそ二二キロメートル、ざっと五里余りとなった。

これは、南北約五・三キロメートルだった平安京を、

南北に二往復してもなお余る距離だったことになる。

それを定家はこの日一日の勤めとして果している。

定家は行動的だった。

移動手段は徒歩ではなく、

乗馬と牛車だったみたいですけど。

 

こんな事件もありました。

源雅行が定家をひどく愚弄し、

大変な狼籍に及んだので、

定家が怒りを抑え切れず脂燭(ししょく)で

雅行を打った(面を打ったとも)。

このことで定家は除籍された。

宮中で暴行を働いたというのは穏やかではありません。

ただし、この源雅行(みなもとのまさゆき)って人も

素行の良くなかった人のようで、

後にまた事件を起こします。

ちょっとここでは書けません。

 

原因がよくわからないのですが、

後鳥羽院を激怒させた事件もありました。

 

定家の個性――自己中心的な性格こそが、

和歌の革新をもたらした原動力であった。

と著者は評価しています。

定家は芸術家らしく、気難しくて、

鼻っ柱の強い一面があったようです。

 

好奇心も旺盛で、無類の「見物」好きでした。

たとえば内裏や院御所から

行幸や御幸が出立したと聞けば、

早速通路のしかるべき場所に赴きこれを待つ。

それも眺めるだけではない。

目の前を通り過ぎる人ごとに名前や官職名、

着ている衣装の種類、その色彩や文様、

それに持ち物などを書き上げ、

さらには随身や舎人など従者の有無等々も

書き留めている。

筆まめ、メモ魔。

こういう人、いまもいますよね。

ぼくも同類かも。

 

いちばん驚いたのは息子への態度です。

定家には息子の光家(みついえ)と

為家(ためいえ)がいました。

光家は最初の結婚でできた長男、

為家は二度目の結婚の三番目にできた子で、

二人の年齢差は14歳。

定家は幼い為家をかわいがる一方、

兄の光家を邪険に扱います。

為家は1歳半から高貴な方々にお披露目しているのに、

光家は16歳になってからようやく。

為家にはさせられないと断った仕事を、

光家がさせられても問題にしなかったり。

 

極めつけは、太政大臣九条良経(くじょうよしつね)の長男、

九条道家(くじょうみちいえ)が

内大臣に任じられる祝賀の席に、

光家と為家の両人が供奉(ぐぶ)、つまり

お供するようにと仰せが下ったときのこと。

定家は、こういう晴れがましい席に出すのは、

家を継ぐ為家だけでよいと返事を出すのです。

 

もともと光家が長男なのですが、

為家が生まれて、和歌の才に恵まれていることがわかると、

光家は身を引いて、九条家に仕えていました。

やがては蔵人頭にまで昇り詰めるので、

それなりに能力・人望のあった人でした。

ところが、父親の定家は光家をやたら邪険にするのですねえ。

光家を「外人」だとして、式典に出しません。

外人とは「うときひと」と読み、

「身内でない、よそ人」の意味です。

光家は家族ではないと言っているわけで、

これを耳にした光家はさぞ悲しかったことでしょう。

 

それにしても光家を外人とは。

定家さん、冷酷に過ぎませんか。

と著者はとがめています。

光家はしばらく父の家から遠のくものの、

関係を断つことはしません。

けなげな長男でありました。

 

定家は――

 

見渡せば 花も紅葉も なかりけり

浦のとまやの 秋の夕暮れ

 

来ぬ人を 松帆の浦の 夕凪に

焼くやもしほの 身もこがれつつ

 

などの名歌を詠んだだけでなく、

新古今和歌集新勅撰和歌集などの選者を務め、

晩年には多くの古典文学を書写しています。

おかげで1000年以上前に書かれた

源氏物語」がいまも読めるのですね。

自己中でも、えこひいきでも、

いっぱい仕事したことがわかる日記を残した人でした。