うめはらなかせの日記みたいな掲示板2

アコースティックギターの前にすべての曲は平等である

光秀は信長の原理で動いたのか

こないだの近江舞子からの帰り、

途中越えを通りました。

そのときに思い出したのが

「信長の朽木越え」です。

 

1570年、越前朝倉攻めの際、

妹のお市を嫁がせて同盟関係にあった

浅井長政に裏切られ、窮地に陥った信長は、

朽木街道を抜けて京都に逃げ戻りました。

 

信長の原理

この小説では、同行した松永弾正の手引きで、

信長が救われる場面が印象的に描かれています。

図書館のタグを貼る場所、統一されてないなあ。

「原理」というタイトルは、
ものごとの原理を追求せずにはおられない

信長の癖(へき)から来ているのでしょう。

 

信長がアリの集団を観察していると、

よく働くアリ、ふつうのアリ、サボるアリがいる。

その割合は2対6対2。

そこからよく働くアリだけを抽出しても、

すべてがよく働くアリにならず、

やはり、ふつうのアリとサボるアリが出てきて、

その割合はまた2対6対2になります。

同じことが、部下の将兵の働きにも現れていることに、

信長は驚き、その背景に原理があるに違いないと考えます。

 

のちに「働きアリの法則」(パレートの法則とも)として、

経済・社会・経営などいろんな学問で研究される問題を、

信長は幼少の頃から考え続けたという設定です。

 

この世に神は無くとも、神に近い

この世を支配する何かの原理のようなものが、

存在するのか。

それが、これらの事象を起こさせているのか。

と語る信長に対して妻の帰蝶は、

この原理について評します。

『なぜ人は生まれ、すべてが老いて死んでいくのか』

という問いに近いように思われます。

何故そうなるかの答えは未だありませぬ。

 

小説では、信長はそれほど非情な人間には描かれていません。

パフォーマンス重視でありながらも、

恩義や情と無縁の人間ではないのです。

貴重な部下を救うために自らの命を懸けて

不利な戦いに挑むこともありました。

 

1576年、天王寺砦の戦い。

石山本願寺との戦いで天王寺砦に立てこもった明智光秀

敵に包囲され、絶体絶命の状況にあったところを、

信長は寡兵にもかかわらず先陣を切って駆けつけます。

光秀にとって信長は命の恩人ともいえるわけです。

 

さて、そこからなにがどうなって光秀の謀反に、

1582年の本能寺に至るのか。

まあ、そこが読み応えたっぷりなところで、

本能寺好きのぼくは堪能させていただきました。

 

光秀の謀反については、

近年、「四国説」がもっとも有力とされているそうです。

信長が四国政策をがらりと変更したため、

はしごを外された光秀は立場がなくなって、

謀反を起こしたというものです。

光秀の重臣斎藤利三の義理の妹が嫁いだのが、

土佐の長宗我部元親だったんですね。

当初、信長は元親に四国全部をくれてやるといったから、

そのつもりで光秀は交渉していたのに、

途中で信長は心変わりします。

本願寺と和睦できたので、

元親を懐柔する必要がなくなったのです。

そしてついに信長は光秀の頭越しに四国出兵の命を下します。

 

小説のなかで、光秀は最後の最後まで謀反をためらいます。

とうとう中止と決意したのに、

そこからあれよあれよと運命の一本道へ。

 

2対6対2を約分すると1対3対1=5です。

信長の晩年は光秀を含む5人の武将が

脇を固めていたことから、

著者はこの小説の着想を得たそうです。

 

いや~、面白かったです。

同じ著者の作品に「光秀の定理」があるので、

また読んでみたいと思いました。