うめはらなかせの日記みたいな掲示板2

アコースティックギターの前にすべての曲は平等である

哀れな人間の味方です

毎晩、この本を読むのが楽しみでした。

何度大声で笑ったことか。

人間は哀れである

東海林さだおのエッセイを読むのは初めて。

食わず嫌いってことじゃなく単にこれまで縁がなくて。

この本はこれまでに発表されたエッセイを

平松洋子というエッセイスト(未読)が編んだ

アンソロジーということで、

初心者のぼくには最良でした。

 

どの作品もおかしいんだけど、そのおかしさの底には

権威そのもの、あるいは権威をおびたもの、

あるいは権威をひけらかすような、

人間への強い反発心があって、

すこぶる小気味いいんです。

 

それと目のつけどころが身近で、

東海林さだおと同年輩のじいさんには

共感しやすいネタばかりです。

眉を剃る男を批判したりね。

 

対象は人間だけとは限りません。
「小さな幸せ」という一文はこんな感じ。

(小さな幸せとは)蚊をうまくたたくことです

 蚊ぐらい憎らしい奴はいない。
 害ばかりで、いい面がひとつもない。
「人間に、ひとつでもいいことをしたことがあるなら言ってみろ」
 と蚊に対して言ってやりたい。
 まさに人間の敵役の最たるものである。

 

ほんまや~、夜中に耳元でブンブン飛ぶ

蚊ほど憎らしい存在はないです。

「人間に、ひとつでもいいことをしたことがあるなら言ってみろ」

ってとこでぼくは吹き出すんですよねえ。

このバカバカしさったらありゃしない。

大きなものを小さく、小さなものを大きく扱うのですねえ。

 

圧巻は広辞苑新明解国語辞典による

シモネタ言葉の解説ぶりを検証する

「青春の辞典Part1」です。

これがもう抱腹絶倒なんですけど、

”なか倫”を通らないと思うので紹介はやめときます。

 

「人間は哀れである」という章にあるのが、

どんなに立派な人物も(中曽根康弘元総理大臣も)、

こうすればおとしめられるって方法があって、それは、

「手さげ紙袋を持たせてスリッパで歩かせる」というもの。

なるほど、たしかに見た目、超情けない&カッコ悪い。

 

筆者の目は政治家だけでなく最強のタレントにも向けられます。

 こんどは木村拓哉氏を例にして考えてみよう。
 キムタク君は全女性の憧れの的である。
 その眼差し、甘いマスク、声、動作の一つ一つに、

 深いため息をもらし、恋いこがれる。
 そのキムタク君の魅力を一瞬にして失わせるものがある。
 それは赤ん坊のおぶいひもだ。
 キムタク君に、おぶいひもで背中に赤ん坊を背負わせる。
 キムタク君の背中で、おぶいひもで背負われた赤ん坊が、

 首を大きく後ろにそらし、口を開けてヨダレをたらしながら眠っている。
 おぶいひもはキムタク君の胸にくいこみ、

 キムタク君のシャツはそのためによじれている。
 なんなら、このキムタク君に手さげ紙袋を持たせてみるのもよい。
 そこにネギも入れてみよう。
 スリッパもはかせてみよう。
 このとき、キムタク君は別のキムタク君に変貌する。
 これで大体、”尊厳喪失グッズ”はひととおり揃ったようだ。

 

って、これ、想像したらケッサクやなあ。

見てみたい見てみたい見てみたい。

 

編者あとがきにありました。

 不本意は人生の一大テーマである。
 人生は不本意の連続である。

          (『ガン入院オロオロ日記』)

 日々すなわち、理不尽と不本意の連打。
 その渦中、東海林さんは何度でもつぶやく。
 「ま、いっか」
 額にしわを寄せて突き詰めたつもりになったところで

 人間たいした差はないんだよ、だって、みんな哀れな生き物なんだから。

 これが東海林さんの人生哲学だ。
 「人間は哀れだね」
 「なにをやっても可笑しいね」
 理不尽と不本意から身をかわす骨法、それが「ま、いっか」である。

ここはすごく共感できるんですよね。

ぼくもつらいこと悲しいことがあったとき、

「ま、いっか」と諦観できるワザを磨きたいものです。