毎晩、この本を読むのが楽しみでした。
何度大声で笑ったことか。
人間は哀れである
東海林さだおのエッセイを読むのは初めて。
食わず嫌いってことじゃなく単にこれまで縁がなくて。
この本はこれまでに発表されたエッセイを
平松洋子というエッセイスト(未読)が編んだ
アンソロジーということで、
初心者のぼくには最良でした。
どの作品もおかしいんだけど、そのおかしさの底には
権威そのもの、あるいは権威をおびたもの、
あるいは権威をひけらかすような、
人間への強い反発心があって、
すこぶる小気味いいんです。
それと目のつけどころが身近で、
東海林さだおと同年輩のじいさんには
共感しやすいネタばかりです。
眉を剃る男を批判したりね。
対象は人間だけとは限りません。
「小さな幸せ」という一文はこんな感じ。
(小さな幸せとは)蚊をうまくたたくことです
蚊ぐらい憎らしい奴はいない。
害ばかりで、いい面がひとつもない。
「人間に、ひとつでもいいことをしたことがあるなら言ってみろ」
と蚊に対して言ってやりたい。
まさに人間の敵役の最たるものである。
ほんまや~、夜中に耳元でブンブン飛ぶ
蚊ほど憎らしい存在はないです。
「人間に、ひとつでもいいことをしたことがあるなら言ってみろ」
ってとこでぼくは吹き出すんですよねえ。
このバカバカしさったらありゃしない。
大きなものを小さく、小さなものを大きく扱うのですねえ。
シモネタ言葉の解説ぶりを検証する
「青春の辞典Part1」です。
これがもう抱腹絶倒なんですけど、
”なか倫”を通らないと思うので紹介はやめときます。
「人間は哀れである」という章にあるのが、
どんなに立派な人物も(中曽根康弘元総理大臣も)、
こうすればおとしめられるって方法があって、それは、
「手さげ紙袋を持たせてスリッパで歩かせる」というもの。
なるほど、たしかに見た目、超情けない&カッコ悪い。
筆者の目は政治家だけでなく最強のタレントにも向けられます。
こんどは木村拓哉氏を例にして考えてみよう。
キムタク君は全女性の憧れの的である。
その眼差し、甘いマスク、声、動作の一つ一つに、
深いため息をもらし、恋いこがれる。
そのキムタク君の魅力を一瞬にして失わせるものがある。
それは赤ん坊のおぶいひもだ。
キムタク君に、おぶいひもで背中に赤ん坊を背負わせる。
キムタク君の背中で、おぶいひもで背負われた赤ん坊が、
首を大きく後ろにそらし、口を開けてヨダレをたらしながら眠っている。
おぶいひもはキムタク君の胸にくいこみ、
キムタク君のシャツはそのためによじれている。
なんなら、このキムタク君に手さげ紙袋を持たせてみるのもよい。
そこにネギも入れてみよう。
スリッパもはかせてみよう。
このとき、キムタク君は別のキムタク君に変貌する。
これで大体、”尊厳喪失グッズ”はひととおり揃ったようだ。
って、これ、想像したらケッサクやなあ。
見てみたい見てみたい見てみたい。
編者あとがきにありました。
不本意は人生の一大テーマである。
人生は不本意の連続である。
(『ガン入院オロオロ日記』)
日々すなわち、理不尽と不本意の連打。
その渦中、東海林さんは何度でもつぶやく。
「ま、いっか」
額にしわを寄せて突き詰めたつもりになったところで
人間たいした差はないんだよ、だって、みんな哀れな生き物なんだから。
これが東海林さんの人生哲学だ。
「人間は哀れだね」
「なにをやっても可笑しいね」
理不尽と不本意から身をかわす骨法、それが「ま、いっか」である。
ここはすごく共感できるんですよね。
ぼくもつらいこと悲しいことがあったとき、
「ま、いっか」と諦観できるワザを磨きたいものです。