うめはらなかせの日記みたいな掲示板2

アコースティックギターの前にすべての曲は平等である

はじめて好きになった人の普遍

朝ドラの舞ちゃんと貴志君、やっさもっさで、

どうにかくっつきましたね。

友情と恋愛のはざまで揺れるふたり

っていうのは古くからのテーマです。

ふつうは性欲が恋愛の燃焼剤となって、

後押ししてくれるのですけれど、

NHKだと(そうじゃなくてもいまの人はこんな感じ?)、

そうもいかず、外野のじじばばはやきもきさせられます。

 

舞ちゃんと貴志君がくっついたあとに観たのが、

この香港映画。

大阪アジアン映画祭でABCテレビ賞を受賞した作品です。

 

はじめて好きになった人

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おっさんが観ても胸がキュンとなる映画です。

ウィンラムとサムユはカトリック女子校の同級生。

あまりに仲が良すぎて、あるときふたりの関係は、

親友の域を越えてしまいます。

その秘め事は少女らしい幼さゆえの戯れなのか、

それともまごうことなき愛なのか。

 

ウィンラムにとっては身も心も捧げる愛なのですが、

サムユには女同士であることにとまどいがあります。

そのくせ結果も考えずウィンラムを挑発して、

情熱へと駆り立てるのはいつもサムユのほうです。

妖しくて美しくも残酷な少女たちの姿を描いた

宮原昭夫の小説「石のニンフ達」を思い出しました。

 

大学生、社会人へと成長していくなかで、

高校時代の新鮮で熱を帯びた特別の体験は

静かな思い出に変わっていきます。

その間のウィンラムの葛藤がリリカルな映像とともに描かれます。

 

大学を出て映画監督として成功し始めたウィンラムは

インタビューに応えて言います。

(自分の経験を元に映画をつくったのでしょう)

2人の人間が同じ出来事を経験しても
記憶は異なることがある
この映画は――
ある少女を捜す別の少女を通して
2人が高校時代に経験したことの記憶に
違いがないかを考えます

こちらは恋愛だと思っていても、

相手は友情の延長と思っているだけなのか。

同じように互いを求め合った体験をしていても、

内心は別々のところにあるのか、そうではないのか、

結局、わかることはないのです。

女の子同士の恋愛を描いていますが、

LGBTQ論争のまな板にのせるような、

そういう特別なことではなく、

もっともっと普遍的な青春体験を描いていると感じます。

だからこそ観客の属性や性的指向にかかわらず、

見る者は自分の経験した心の痛みを思い出すように、

自分ごととして主人公の懊悩に触れることができるのです。

 

愛とはなにか、人に対して誠実であり続けるとは?

大切な人とともに生きたいと願う積極的な愛があれば、

大切な人には本当に大変なときだけそばにいて

支えてほしいと願う受け身の愛もあります。

恋する勇気はあっても
愛を恐れる人は多いだろうか

というのはウィンラムの言葉。

互いに恋をしているのは間違いないのに、

社会から排除される同性愛に踏み切る勇気が

サムユにはないのかと嘆く言葉のように思えます。

 

一方のサムユは言います。

私はあなたの人生の脇役よ
永遠に親友よ

人は自分をしか生きることはできません。

自分以外の人はどんなに大切な人であっても、

自分の人生のなかでは脇役にすぎないのもまた真実。

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印象に残るセリフがいくつかあります。

小学校の6年間は中高の7年間に憧れ
中高の7年間では大学の3年間に憧れる
そして残りの人生では
青春時代を懐かしむのだ

香港では日本と学制が少し違うようですが、

大人になって青春時代を懐かしむってところは同じですね。

香港映画だし、同性愛映画だけれど、

共感できるところはいっぱいあります。

 

そうそう、ふたりのお父さんがとってもいいんです。

問題行為が発覚して校長に呼び出されたあと、

父親たちは叱るでもなく責めるでもなく、

子どもたちの心に寄り添います。

とくにサムユのお父さんは、妻に愛想を尽かされて

出ていかれるような甲斐性なしで、

失敗続きの人生を歩んできたのですが、

それゆえに娘にだけは細やかな愛情を注ぎます。

こんなお父さんだから娘親になれるのだなあと、

息子しかいないぼくはうらやましくなりました。