うめはらなかせの日記みたいな掲示板2

アコースティックギターの前にすべての曲は平等である

社会ノマドはもう聞かない

コロナ前までは月一くらいで東京出張があって、

帰りはだいたい夜でした。

新幹線ノマドから京都タワーの灯りが見えてくると、

ほっとすると同時に、そこはかとない淋しさを

感じるくらい、ぼくはさみしがり屋でありまして、

ノマドランド」を見終えて心に湧いてきたのも、

寂寥(せきりょう)

という感覚でした。

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読み終えたばかりの本に「寂寥」とは、

虚に等しく、死に近いもの

とありました。

 

人間って、なにか最高の出来事があったとしても、

その後も人生は続いていくじゃないですか。

年老いてくるとなおのこと、

若い頃より最高の出来事って起こりにくくなるし、

逆に失うことのほうが増えていきます。

続いていく余りのような時間のなかで、

残りの人生をどういう心持ちで生きていけばいいのか、

この映画を見ていると考えさせられます。

 

さみしがり屋のぼくにはつらい映画でした。

1回で5分しか見られないこともありました。

だけど見ないといけないよなあと思ってしまうんです。

アカデミー賞の作品・監督・主演女優賞の3部門を受賞した

映画なんだから見なくちゃという、けち臭い根性もあります。

この映画を見終えるまでに1年かかりました。

ディズニープラスは月990円なので、

これを見るのに1万円かかったことになります。

けち臭いぼくにしては大盤振る舞いでした。

 

原作は「ノマド 漂流する高齢労働者たち」というノンフィクション。

キャンピングカーで季節労働の現場を渡り歩く

60代の女性ファーンが主人公です。

ノマドというのは遊牧民のこと。

高齢者になって家がなく放浪する身の上になったら、

どんなにつらいだろうと思ってしまうのですが、

彼らはひとり自由に生きる生き方を貫きます。

ひとりは孤独でもあるけれど、自立であり誇りなのです。

ていうか孤独にネガティブな意味はありません。

行く先々で「この瞬間に死んでもいい」と思えるほどの

景色や人にも出会います。

ノマドたちの別れの挨拶は、

Good byeではなくSee you down the road。

それは、こうして移動しながら暮らしていれば、

いつかまた、必ず会えるものだから。

というセリフが出てきます。

いつかまたどこかで機会があれば会える。

人と人とのつながりなんて、

その程度に期待するくらいで十分ともとれます。

 

この映画、ドラマらしいドラマは起こりません。

放浪のなかの途中下車みたいにエピソードが描かれます。

たとえばAmazonでの季節労働

ノマドたちは年の暮れにAmazonの巨大物流センターに集まります。

この時期だけは実入りがいい職場のようです。

ノマドを生み出したのはAmazonに代表される

大きな社会の変化なのですが、

映画ではこうした背景を批判的に描くわけでもなく、

Amazonもまた淡々とあるがままをさらけ出しています。

日本映画だとここは架空の企業になってしまうところですね。

 

Amazonとノマドのように、

この映画では大きなものと小さなものとが対比されます。

すばらしい映像なので映画館で見るべき映画なんでしょう。

大自然対人間。

自然はとても壮大で美しいけど、

人を寄せつけない険しさも備えています。

このなかを、ひとりで生きていく覚悟はあるのかと

問われている気がします。

 

主人公には親身に心を寄せてくれる肉親(妹)や男友だちがいて、

いっしょに暮らさないかと誘ってくれるのですから、

放浪以外に道はないってわけじゃないのです。

だけども彼女はおんぼろのバンでひとり走り続けます。

なぜそうするかは、ぼくにはまったくわかりません。

親しい人に取り囲まれていても、

温もりのある家に暮らしていても、

喪失感や悲しみを抱えて生き続けるという点で、

人間はみんな同じということなのかもしれません。

心が弱っているときに見る映画じゃないかも。

 

それはそうと、最近では社会ノマドって言葉、

死語なんですかね。