うめはらなかせの日記みたいな掲示板2

アコースティックギターの前にすべての曲は平等である

その朝、その輪はこの先も壊れない

いつもうめなかライブを手伝ってくださるうらないしさんが、

ブログで紹介されていた本です。

世界のあちこちで散骨をした人たちの話です。

『晴れたら空に骨まいて』がとてもよかったです - uraniwamiyuki’s diary

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それで読んでみることにしたんです。

散骨にも興味があったので。

 

読んでみて感じたのは、

生前と死後は、そして死者と生者は、

分かちがたくつながっているということ。

散骨に至る経緯を書くということは当然、

弔う人と亡くなった人とがどう関わっていたか、

その関係を描くことになります。

 

ここには散骨にまつわる6つのエピソードが収録されています。

どのエピソードも、え? ほんとにこんな人がいるの? 

と驚くほど、けた外れの人たちが登場します。

とくにヒマラヤでほぼ命がけで散骨するエピソードは圧巻でした。

あるいは、まったくの赤の他人を家に迎え入れて看取りをする人がいます。

そんなの、ふつうじゃありえません。

けれども、ごく自然に、気負いなくやってのける人たちが

広い世間にはいるのですね。

 

そういう特殊な人たちの話だから自分に関係ないかといえば、

そうならないところがこの著者の感性と並外れた筆力なのでしょう。

実は散骨なんて考えたことないって人も読む意義があります。

ドキュメンタリーでありながら、

たっぷりとした小説を読み終えたかのような読後感がありました。

 

読んでいて身につまされることが多々あります。

思い出というのは生者の間で死者を語ることだけではない。

反対に、死者を通じて生きている者同士が対話をしたり、

新たな思い出を生み出すこともできる。

そうして死者は、家族の思い出の参加者にもなれるのだ。

なるほどそうだと思います。

散骨は死者と生者である自分とが、

より近づくための儀式のように思えました。

自分を、死者とともに生きる、器にするような、

そんなプロセスなのかなと。

 

でも、今日は読書感想じゃなくて、音楽ばなしです。

この本の第3章「緑色のノート」に芳恵さんという女性が出てきます。

チェコで客死した父親の遺体が、ストレッチャーに乗せられて

火葬場に運ばれるとき、芳恵さんの頭のなかで流れていたのが、

この曲でした。

www.youtube.com

「その朝」、これは加川良ですね。

ぼくは日本語で聴いたことはなかったのですが、

これこそ、いままで何度もライブで聴いた曲です。

カントリーバンドの方がよくMCで話されてました。

カントリーソングって人殺しとか葬式の歌が多いんですよね

と。

そう、ぼくらにはおなじみ「Will the Circle Be Unbroken」です。

いろんなバージョンがありますが、

カントリーミュージシャン総出演のこれ、見つけました。

カントリー版「We are the World」みたい。

Nitty Gritty Dirt Band/Johnny Cash/Ricky Skaggs

www.youtube.com

 

本のなかではこう書かれています。

芳恵さんは、この『Will the Circle Be Unbroken』のCDも持っていたが、

二つの曲のつながりにずっと気づかずにいたそうだ。

確かに二つの曲の雰囲気は、それほどまでに異なる。

『その朝』はしんみりとさせるが、原曲は人を前向きにさせる力がある。

 

二つの曲の決定的に違う簡所は、その歌詞である。

原曲では、タイトルにもなっている「その輪はこの先も壊れない」

というフレーズが何度もサビで繰り返される。

それは、『その朝』にはない部分だ。

ではこの「サークル(輪)」というのはなにを意味しているのだろう?

 

著者がアメリカ人でカントリー好きの友人にメールで訊いたところ、

「僕が好きなのはジョニー・キャッシュのバージョンだけど」

と前置きをした上で、「サークル」には二つの意味があると書かれていたそうです。

かつて人々は、親しい人が亡くなると火の周りに集まって輪を作った。

それが第一の輪だ。

もう一つの輪は、亡くなった人の魂のことだ。

魂は何度も生まれ変わる。

その輪はずっと廻り続ける。

それは輪廻転生の輪でしょうか。

 

うちには「梅原家之墓」というのがあって、

散骨はないだろうし、散骨されたい気持ちも、

ぼくにはとくにはありません。

自分が死んだら、体は焼かれて煙になって空に溶け込み、

骨は墓の下で土に還ると思います。

ハードとしてのぼくのかけらは空中と地中に雲散して、

ソフトとしてのぼくのかけらはだれかの記憶になって、

いつか曖昧にぼやけて消えていくんだなと想像します。

やがて輪になるかどうかは知らないけど、

それで十分ありがたいと思います。

 

でもお墓じゃなく、自分の「生」とはっきり関わりのある場所に、

遺灰をまいてほしいと願い、あるいはまいてあげたいと

切望する人がいるのですね。

 

散骨がありかなしかというのは一旦わきにおくとして、

大切な人を喪うことは悲しいけれど、

その人が「すぐそばにいる」ように生きる生き方はできるし、

そうできることは、これから生きていく上で意味がある。

そういうことを、この本は考えさせてくれます。