うめはらなかせの日記みたいな掲示板2

アコースティックギターの前にすべての曲は平等である

現実の彼女は鋳型にすぎない

いくつになっても頭の体操みたいに考えます。

人を好きになるって、どういうことなのか。

オリビアを聴きながら」には、

疲れ果てた私 あなたの幻を愛したの

という歌詞があります。

自分が愛した人は本当に自分が知っている、

思い描いている人なのかどうか、

と突き詰めて考えると、わかるわけがないですね。

人はだれも自分の思考や感覚しか認識できません。

どんなに好きな人であっても、その人がなにを考え、

どう感じているか、推測するしかありません。

 

中国のSF小説「三体Ⅱ(上)」には、

自分が創作した小説に登場する女性を

愛してしまった男の話が出てきます。

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その女性があまりにもリアルに立ち現れるので、

作家はとうとう自分の頭がおかしくなったのではと考え、

精神科医に相談します。

ところが医師はそれでなんの問題もないと答えます。

 

ぼくは自分が構想した小説に出てくる虚構の人物を

気が狂うほど愛してるんですよ。

彼女と生活し、彼女と旅に出て、しかもその彼女のために

実の彼女と別れてしまった。

それでも深刻じゃないと?

と作家は医師に訊きます。

すると予想外の質問が返ってきます。

「ほかの人たちの恋愛対象は実在すると思ってるんですね?」

当たり前でしょうと答える作家に、医師は首を振ります。

いいえ、違います。

大部分の人間の恋愛対象も、想像の中に存在しているだけです。

彼らが愛しているのは現実の彼・彼女ではなく、

想像の中の彼・彼女に過ぎません。

現実の彼・彼女は、彼らが夢の恋人をつくりだすために利用した

鋳型でしかない。

遅かれ早かれ、夢の恋人と鋳型の違いに気づかされます。

もしもこの違いに適応できれば、

ふたりはともに歩むことになるでしょうし、

適応できなければ別れる。

そういう単純な話なんです。

あなたが大多数の人々と違っているとしたら、

あなたには鋳型か必要ないという点ですね。

 

ぼくらはみんな現実に存在するだれかを愛しているつもりで、

それは自分の想像のなかの(自分が勝手に創りあげたかもしれない)

だれかにすぎないということなんですね。

現実の彼女はそのための鋳型。

両者のズレに適応できるかどうかで関係が続くか終わるかが決まる。

たしかにそういわれればそうなのかも。

唯心論というのはSFではじめて知った気がします。

ちょっと違うけど、「マトリクス」の世界観もそんな感じ。

久しぶりにSF作家の恋愛論を新鮮に感じました。