「はじめてのお使い」なんてテレビ番組のコーナーがありましたね。
ぼくも子どもの頃にお使いはけっこう使われました。
ぼくは4人姉弟の末っ子で、
小学生の間はみんなお使いに行ったんやし、今度はあんたの番!
とか姉兄に言われて、毎日のようにお使いに行かされていました。
1960年代のことですね。
やっと小学校(お使い)を卒業したと思ったら、
その頃は姉は大学生、兄も高校生で、
お使いなんか絶対いやというので、
ぼくは中学になってもお使いに行かされました。
お使い先はだいたい5軒ありました。
家の前は小さなオート三輪がやっと通れる路地のような通りでした。
1軒は歩いて1分もかからないパン屋さん、
というかいまでいうコンビニみたいになんでも置いてる店です。
朝は店内の丸テーブルでパンと牛乳を食べる
出勤前の人たちで賑わってました。
冬場は牛乳瓶をお湯であっためる専用の器具があったし、
牛乳瓶の紙のふたを開ける道具も珍しかったですね。
ここで買うのはお菓子とか麺類でした。
うどんやそば(生めん)を5玉10玉と買うと、
おばさんがろう紙に包んでくれました。
生めんは直接口にふれるからろう紙でしたが、
それ以外のたいていのものはどの店でも新聞紙が包装紙でした。
おやつに買ってた1枚1円の塩せんべいは透明の瓶に入っていて、
薄っぺらなハトロン紙の紙袋に入れてくれました。
ガラスケースの中にあったフランスキャラメルは憧れで、
なかなか買えませんでした。
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なのでたいがいは5円のサイコロキャラメルでした。
次は歩いて3分ほどの八百屋さん。
家が並んでいるなか、くぐって行ける細い路地がありました。
(先斗町みたいな感じの)そこを通ると近道でした。
タマゴはいまみたいにパックされてなくて、
大きな木箱のなかのもみ殻に埋まっていました。
それを掘り出しては紙袋に入れてくれました。
ユリ根なんかももみ殻のなかだったなあ。
この時代はリンゴ箱も木製でしたねえ。
次も歩いて3分ほどの豆腐屋さん。
いまは家業じゃなくて企業でやってらっしゃいますねえ。
コロナという玉子サンドで有名な洋食屋さんの向かいにありました。
ここはボウルを持って買いに行かされるのが恥ずかしかった。
お使いに行かされてるってのが丸わかりですから。
でも水槽に沈んでる豆腐を手のひらですくい出して、
四角い包丁で何分の1かに割る作業とか、
興味深く見ていました。
焼き豆腐はガスバーナーの炎で焼き色をつけるですね。
次が歩いて10分ほどの志津屋。
河原町通りの四条を上がったところにありました。
日曜の朝とか、子どもたちが志津屋のパンが食べたいと甘えて、
親の機嫌がいいと、またぼくが行かされました。
ぼくも食べたいからいやじゃなかったです。
カツロールとあんドーナツがお気に入りでした。
最後が歩いて15分ほどの長崎屋。
河原町松原よりまだ南でした。
ここはお肉屋さんです。
トンカツ、ハムカツ、コロッケを買いに行かされました。
夕方はいつも行列ができていて、
おばさんたちに混じって並ぶのが恥ずかしかったこと。
ぼくの番がくるとコロッケを揚げてるお姉さんが
「また来たね」って得たり顔でニコッとしてくれました。
それがまた子ども心に恥ずかしかった。
コロッケはかたいパン粉と柔らかいパン粉が選べて、
いつもかたいパン粉のコロッケを買っていました。
その頃は1個7円くらいだった気がします。
ハムカツはお弁当の定番だったかなあ。
けっこう遠いのに歩いてお使いに行ってたのは、
中3くらいになるまで自転車が乗れなかったから。
籐で編んだ買い物カゴを下げて歩くのは恥ずかしかったなあ。
でも、おいしいものが食べたい一心で歩いてました。
社会人になってから次の転職をするまでに
ぼくは中央市場で働いていました。
その仕事もお使いの延長のようなものでした。
お昼前までは市場の中をモートラという電動三輪車で、
その後は4トントラックで市内を配達してまわるんです。
これがぼくには楽しかったです。
そう、いま思えば、お使いはけっこう楽しかったんです。
オトナとの会話や金銭のやりとり……などなど、
お使いで学んだことはたくさんあったんだと思います。