Netflixの「ラスト・キングダム」が
めっぽう面白いって書いたんですけど、
これは9世紀のイギリスが舞台で、イギリス本土のサクソン人と
海の向こうから渡ってくるノルマン人の一派、
デーン人との戦いを描いています。
その頃のイギリスは七王国時代と呼ばれていて、
日本でいえば戦国時代みたいなもんでしょうか。
親子、親戚、有力者同士が覇権を争います。
日本の戦国時代よりも前だけに、もっと粗野なムードです。
最終的に七王国時代は、ウェセックス王国によるイングランド統一
という形で決着し、「イングランド王国」が誕生するということのようです。
ドラマの会話の中にときおりローマの遺跡のことが出てきます。
イギリスは5世紀初頭までローマ帝国領だったのですね。
公共浴場なんかもたくさんあったようで、
いまでいうセントラルヒーティングの仕組みもあるような
立派な施設が造られたのですが、
それらは「ラスト・キングダム」の時代には失われています。
いくら進んだ文明があっても受け継がれないってケースは
よくあることなのですね。
「ローマ帝国衰亡史」という古典があります。
著者は18世紀のイギリスの歴史家、エドワード・ギボン。
この人の名前を聞くと、ぎぼし最中が食べたくなります。
で、こないだ読み終えたのは「新・ローマ帝国衰亡史」。
図書館で借りました。
人形劇「新・八犬伝」をこれまた思い出しますが、
この新書はとってもシリアスな歴史書です。
皇帝や将軍の名前が次から次に出てきて、
しかもそれがよく似てるので、素人が読むのはなかなか大変でした。
さて、ローマ帝国の滅亡については、
高校のときの受験勉強で教わっています。
ローマしなむ――476年に滅びたんでしたっけ。
アジアからフン族の大群が押し寄せて、
これに圧迫されたゲルマン民族の大移動で、
西ローマ帝国は滅亡したんだということでした。
ところが、フン族とは何者で、ゲルマン民族とはどういう人たちか、
最新の研究でも、いまひとつよくわかっていないらしいです。
ではなぜローマ帝国が滅びたのか。
この本で印象に残ったのは次のような言葉です。
ローマ人は、ヨーロッパ内陸部を支配下に入れるにあたり、
そこに住む人々を「民族」によって差別することはしなかった。
それは当然である。
ローマ人の間には、「民族」という区分の観念が存在しなかったからである。
なのでローマ帝国は征服した先の有力者をローマ市民として遇し、
彼らがローマ人として出世していくうちに、
ついには皇帝まで昇り詰めるということも珍しくありませんでした。
いまでいえば移民の子孫が大統領になるアメリカ合衆国みたいなもので、
そうした多様性を受容する寛容さ、
(Diversity&Inclusion)がある社会だったのですね。
ローマ帝国とは、広大な地域に住む多様な人々を、
「ローマ人である」という単一のアイデンティティの下に
まとめあげた国家であった。
異なった文化や歴史的背景を持った、
まったく見ず知らずの人々にも、
このアイデンティティが「私たちローマ人」
という感覚を共有させていた。
ラインやドナウのフロンティアで、
守備につく兵士たちも、
「ローマ人である」「私たち」のために戦っていたのである。
ところが、時代が下るなかで、そういうローマらしさが失われ、
自分たちとは異なる人々を「野蛮人」として蔑み、
排除していく傾向が生まれていきます。
この「排他的ローマ主義」に帝国政治の担い手が乗っかって動くとき、
世界を見渡す力は国家から失われてしまった。
国家は魅力と威信を失い、「尊敬されない国」へと転落していく。
ということです。
どこぞの国を思い出しますね。
D&Iというのは世界の主要な企業がこぞって標榜しています。
倫理的にそれが望ましいってだけじゃなく、
多様性のある集団はイノベーションが起こりやすく、
競争力が高められるということなのですね。
性別、人種、国籍、宗教、年齢、学歴、職歴などにこだわらず、
多様な人材を登用するな社会に、
これからもっとなっていくのでしょう。
「~~~で大丈夫でしょうかああ?」みたいなしゃべりを連発する
20代の女の子にこき使われてる、じいさんのぼくは、
性別や年齢の壁を越えて、新しい社会の洗礼を受けてるってわけです。