写真の整理をしていて直径1センチほどのバッジが出てきました。
ぼくが卒業した京都市立永松小学校の校章です。
永松の「永」をデザイン化したものですね。
こういうのは捨てづらいです。
永松小学校は京都市のど真ん中、
四条河原町交差点から歩いて5分ほどの、
まさに街中に立地していて、
ときにはちょっとやらしい看板もありました。
いまほどお行儀良くない時代でしたね。
校舎は鉄筋コンクリートの3階建て。
当時としては珍しいスチーム暖房でした。
いい建物なので戦後は駐留軍が接収してしばらく使ったと聞いています。
学校は繁華街からは少し引っ込んだ、
まわりは墓地だらけでした。
放課後はお墓でよく遊んだもんです。
住職に見つかると叱られるんですけどね。
向かいのお寺には「おばけいちょう」がありました。
記憶の中にある永松小学校はこんな感じ。
「永松小学校閉校記念誌」によると、開校は1869年。
明治維新の翌年ですね。
全国に先駆けて京都市内に64の小学校が創立されたうちの一つです。
ぼくが通った鉄筋コンクリート造りの校舎は、
1931年の改築で生まれたもののようです。
ページをめくっていて「地区特別警備隊」
という見出しに目が留まりました。
敗色濃厚な1945年6月、永松校の北校舎に、
本土決戦に備え、中部7641部隊が
地区特別警備隊として駐屯したと書いてあります。
「永松百年のあゆみ」は、次のように記しているそうです。
この部隊はゲリラ教育をするために常置され、
…そこに入隊してきた隊員は約200名で、
40歳から45歳までの壮年層と、
16歳から19歳までの少年層の二つからなっていた。
しかも、昼間、下京地区のそれぞれの職場で働いている人達ばかりで、
夕方の6時から、翌日の朝9時まで入隊し、
その間、夜間訓練をうけ、永松校に寝起きして、
朝食後それぞれの職場へ帰っていくというふうであった。…
昼間に働いて夕方から訓練って、きついですねえ。
ぼくの父は当時30代後半だったと思いますが、
戦争の話は聞いたことがありません。
父の10歳下でまだ若かった母は隣組の役で、
空襲警報発令~~~~~!
と屋根の上を走って呼びかけたと得意そうに話していました。
お父ちゃんは? と訊くと、
「馬の世話をさせられて、いつもしょげたはったわ」
とのことでした。
それでも兵隊にとられるよりはマシだったなあと
ぼくは思ってたんです。
だけど、これまた整理をしていたら写真が出てきたんです。
兵隊姿の父、後ろの列の中央です。
背景の校舎は間違いなく永松小学校で。
知らなかったなあ、父がこんな姿で母校にいたなんて。
もしも戦争が長引いていたらゲリラ戦をやっていたんでしょうか。
そうなるとぼくは生まれてなかったかも。