せっしゅうといえば、雪舟じゃなくて接収。
かなり町中にあって、終戦後、
進駐軍に接収されたのが「自慢」でした。
ぼくの自慢じゃなくて、先生方の自慢です。
米軍に接収されてたんだぞって怒るんじゃなくて、
どちらかというと、うれしそうに言うんです。
なんでも鉄筋コンクリート造りで、
暖房がいまでいう温水暖房システムだったので、
快適性を求める進駐軍のお眼鏡にかなったとか。
まあ、進歩的なアメリカさんにお墨付きをもらったみたいなことで
京都人のプライドがくすぐられたんでしょうか。
敗戦間もなくは、我が母校だけじゃなく、
京都では多くの施設が接収されました。
米軍の西日本司令部が京都に置かれたからなんですね。
さすがにそれは困るといって代わりに差し出したのが府立植物園。
花壇や薬草園をつぶして米軍の家族用住宅が建てられたそうです。
いま近畿地方唯一の在日米軍基地といわれている京丹後市の経ヶ岬通信所も、
1948年には米軍のレーダー基地が置かれていたみたいです。
そんな話が「米軍基地下の京都 1945年~1958年」という本に
書かれています。
ぼくが5歳の頃までは京都市内に米軍基地があったんですねえ。
植物園が返還されたのは1957年のことでした。