朝日新聞のオピニオンコーナー(?)の下のほうに、
(記者有論)合唱教育とポップス 人生の指針となりうる曲を
と題したコラムがあって、これがけっこう刺激的で勉強になりました。
以下、全文に近い引用になりますが、紹介しますね。
(ほんとの全文はこちら)
http://digital.asahi.com/articles/DA3S12991485.html
全国の小中高生が参加する合唱の祭典「NHK全国学校音楽コンクール」で、
中学の課題曲がAKB48の新曲になったことが教育現場に波紋を広げている。
そうなんです。
その続きを読んで、へっ!? と思ったのが、
「声への配慮が一番必要な時期の子供には歌わせたくない」
という楽曲そのものへの指摘の多さが心に留まった。
という記者の指摘です。
中学って「声への配慮が一番必要な時期」だったのですね。
問題とされる課題曲のタイトルは「願いごとの持ち腐れ」。
記者は次のように指摘します。
まず、旋律の音域が2オクターブ近くあることに驚く。
サビの部分では、かなりのどを締め上げねばならないはずだ。
歌詞も旋律の流れに沿っておらず、
文脈を持たない単語がぶつ切りになってきこえてくる。
合唱教育の根幹である、言葉と歌の豊かな相乗効果を期待するのは難しいだろう。
ここはちょっと、うなりました。
たしかに最近のJポップは、日本語が本来持っている言葉の抑揚を
無視しているようなメロディーが多いと感じていたからです。
「言葉と歌の豊かな相乗効果」が「合唱教育の根幹である」って、
へ~~~、そうなんやって素直に感激しました。
合唱は「教育」だったのですね。
さらに指摘は続きます。
この曲に限らず、Jポップ(は)もともと旋律の印象が強いだけに、
よほどの熟練者がいちから楽曲を作るくらいの気概でアレンジしない限り、
凡庸な伴奏を一部の子供に課すことになりかねない。
それは、全ての声部が対等に主張しながら響きを編むという
合唱本来の精神とは相いれないものだ。
「全ての声部が対等に主張しながら響きを編む」というのが
合唱本来の精神なのですね。
わかるわかる。
うめはらなかせでもメロディーとハーモニーは対等なんですよ。
ハモの音量は小さめにしてません。
「響きを編む」ことが大切なんですよね。
記者はさらに教育としての合唱の本質に迫ります。
「合唱は他者を敬う心を育て、人としての生き方を考えるきっかけになる」
異なる民族や時代の響きは好奇心の扉を増やし、
多様な価値観を柔らかく受け止める感性を培う。
結果ではなくプロセスこそ、教育の本懐なのだ。
う~ん、知らなかった。
「合唱は他者を敬う心を育て、人としての生き方を考えるきっかけになる」
って、そこまですごい教育的価値があったんだ。
そして合唱・音楽には教育を超えるさらに大きな意味が……
自分の身体から生まれる声で表現することは、
自分という存在に向き合うことでもある。
主張することと他者と響きあうこと。
これが矛盾なく共存するのが音楽であり、合唱だ。
ほんと、このことは実感します。
ぼくも、なかせさんと練習でバトルしてますけど、
ここが違う、ここがだめと主張しあって、
最終的にはなんとか響き合うことを目指しています。
(そのわりには対立ばっかりですけど)
とっても腑に落ちるコラムでした。
ぼくがなんでハモりたいかというと、
そこにコード(和音)があるから、かな。
メロディーから自分が強調したいコードの音を発掘して、
それを提示することがハモるということです。
いくつもあるコードの音から特定の音を選び出すところに
自分の個性が出るわけです。
その個性を出すためにはメロディーをうたう他者が必要になるわけで、
人間、ひとりじゃなんもできないよって教育を、
日々「合唱」から受けてるはずなんですけどね。
なかせさんと響き合うって実際には難しいです。