うめはらなかせの日記みたいな掲示板2

アコースティックギターの前にすべての曲は平等である

市塵に帰る

時代小説で好きな作家はと訊かれれば、

間違いなく藤沢周平と答えると思うのですが、

全作品を読んだわけではありません。

ほんの一部だけ。

なので、この作品は存在すら知らなかったですねえ。

父の蔵書です。

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市塵(しじん)

市塵と呼ぶほかはない町の一隅に家塾をひらいていた

新井白石が、徳川将軍の政治顧問までのぼりつめて、

しかし、将軍の死で職を免ぜられ、再び、

市塵の中に……。帰るべし

と思い定める、その心境をタイトルとしています。

 

新井白石って、受験で日本史を取ったから習ってますけど、

地味な存在ですよね。

この作品も地味なんですけど、400ページほどの分厚さで、

新井白石の半生に付き合っていると、

最後に巻を置いて少しさびしい気持ちになりました。

藤沢周平の人生、人生観がだぶってくるようでした。

静謐ながらたっぷりとその役割を果たし終えた人の充足と、

表舞台から消えていく一抹のさびしさと。

諦念とともに人は生涯を終えるのですね。

 

新井白石儒学者で、六代将軍・家宣、七代将軍・家継の時代に

重用され「正徳の治」と呼ばれる政治改革を行います。

http://www.japanserve.com/nihonshi/n-reki-050-shoutokunochi.html

新井白石は厳格に理論を構築する朱子学儒学の一派)の学者である一方、

その理論を現実政治に適用して世を正したいという

リアリストとしての野心を持つ人として描かれます。

五代綱吉の生類憐れみの令を廃止し、

破綻寸前の幕府の財政を救おうとし、

貨幣改鋳(改悪)による物価高騰を収めるため、

元の良貨に戻そうと奔走します。

 

面白かったのは朝鮮通信使についての政策提言です。

ひとつは復号問題で、先方の国書にある徳川将軍の称号を、

日本大君から日本国王へと改めさせることでした。

清朝の天子と日本の天皇は同列であり、

朝鮮国王と徳川将軍は対等だとする発想でした。

朝鮮は清の臣下となる国なので、

その国王と天皇が同等であってはいけないということです。

足利幕府時代にも日本国王とした先例があり、

明の冊封を受けた日本国王は足利将軍であって天皇ではないということ、

そして家康の時代、朝鮮使節の待遇は琉球使節と同等だった

という歴史認識も根拠でした。

 

もうひとつ改革の本命だったのが応接儀礼の簡素化です。

使節の待遇が豪華すぎて幕府や各藩の財政を圧迫したのです。

たとえば通信使の船団を出迎えるために、福岡県にある黒田藩は、

通信使船団に百四十四隻、対馬藩船団に二百四十三隻の曳船を使ったという。

この日のために用意した船舶は五百隻余、船頭、水夫は三千六十人だった。
このあと通信使の船団は瀬戸内に入り、一行は長門国赤間関・上関(長州藩)、

安芸国蒲刈(芸州藩)、備後国輛(福山藩)、備前国牛窓岡山藩)、

播磨国室津姫路藩)、摂津国兵庫(尼崎藩)、大坂(岸和田藩)

と経由して淀から陸路に上がり、

さらに淀藩以下およそ二十五藩の接待を受けながら江戸を目ざすのである。
通過諸藩の迎接の規模は、禄高に準じて差があってよいとされるものの、

十万石以上の藩はすべて日本側の出費は毎回百万両を数え、

動員された人足は三十三万人、馬は七万七千六百頭だったといわれる。

朝鮮使節の待遇は、国交回復の初期から手厚く、

目撃した平戸のイギリス商館長リチャード・コックスが、手紙の中に

「皇帝の命により朝鮮人は到る所にて王者の如く待遇せられたり」

と記したように、外国人の日にも厚遇に過ぎると見えたほどのものだった。

 

莫大な出費を削減するという喫緊の課題を解決するとともに、

「彼我対等」を実現したいという思いも白石にはありました。

すなわち、わが国の使節が朝鮮を訪問すれば朝鮮の儀礼に従うし、

朝鮮の使節が来たときはわが国の礼式に従ってもらおうという発想です。

ただ当時は日本から使節を送っても、朝鮮の入口の釜山浦にとどめられて、

首都漢陽から出向して来る接慰官の接待を受けるのみだったので、

その点では平等ではありませんでした。

 

こうした新井白石の改革には反対意見も多く、

抵抗勢力との間にかなりの軋轢を生むことになります。

冒頭に書いたように白石は将軍の代替わりとともに

要職から追われることになります。

実際、吉宗の代になると朝鮮通信使への厚遇が復活し、

白石の苦心の建議書類が、新政権のもとで

ことごとく火に投ぜられたといううわさがあったのである。

とのことでした。

しかし、白石はその胸に強烈な自負心を隠していました。

ほかに、人がいるかと白石はひそかに思うのだ。

権力に阿(おもね)らず、

神祖家康公が尊んだ儒の道と古今の歴史に照らして、

政治の道を誤りなからしめる者が、この白石のほかにいるか。

 

新型コロナ対策で助言役を務めてきた専門家会議が廃されましたが、

学者の方々も新井白石と同じような自負心をもっておられたのではないか

と推察する次第です。