うめはらなかせの日記みたいな掲示板2

アコースティックギターの前にすべての曲は平等である

「ラ・ラ・ランド」と「ニューヨーク・ニューヨーク」

こないだテレビ放映があったので録画して見ました。

ミュージカル映画ラ・ラ・ランドです。

実は前にアマゾンプライムビデオで字幕版を見かけて、

途中でやめていたんです。

なぜって冒頭のシーン、夏の高速が渋滞して、

みんなクルマから降りて一斉に踊り出すというシーンが、

あまりにミュージカル的で、ばかばかしくなって見るのをやめたんですね。

ま、ミュージカル映画なんですから、それでいいんでしょうけど。

 

でも、テレビ放映は吹き替え版だったので、

わりとスムースに作品世界に入れました。

不思議なもんです。

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この映画、アカデミー賞をいっぱい取ってるんですよね。

なので期待が大きいぶん、途中は既視感にとらわれました。

なんだかなあ、こういう話って昔からあったよなあ、

オー・ヘンリーの「賢者の贈り物」的な、

愛し合うふたりが相手の気持ちを忖度して、

逆に大切なものを失ってしまうみたいな。

あるいは夢を追うふたりが現実の壁にぶち当たって

妥協を重ね、そこからふたりの愛も破綻していくような……

って感じてました。

 

印象に残ったことといえば、ひとつはクルマの扱いです。

女優志望の女主人公ミアが乗ってるクルマはプリウス

アメリカドラマではこの手の日本車に乗ってる人間に対する、

ある種、小ばかにしたような描き方がときどき見受けられます。

(この映画ではそういう意図はなかったけど)

対するピアニストの男主人公セブが乗っているのは、

ガソリンをバカバカ食いそうな年代物のオープンカー。

クルマのイメージで主人公をキャラクターづけしてるんですね。

 

ここからはネタバレになるので、

まだ映画を見てない人は読まないでくださいね。

 

さて、女優志望のミアと売れないジャズマンのセブ。

ミアはオーディションに落ち続けだし、

セブは自分がほんとうにやりたいジャズができずに、

お金のためにしょうがなく

売れ線のバンドでキーボードを弾くことになります。

ツアー続きですれ違いが増え、やっと会えたと思ったら、

夢をあきらめてしまったセブをミアは批判し、

ふたりの間に不協和音が響きます。

 

やがてミアはセブの強いプッシュもあってチャンスをつかみ、

女優として成功し、別の男性と結婚し、女の子も生まれて、

しあわせな家庭に恵まれます。

ある日、夫婦でディナーをとるつもりで街を歩いていて、

ふと音楽が聴こえてきたジャズバーに入ります。

そこはかつてセブが、こんな店を持ちたいと夢を語っていた、

まさにそういう店だったのです。

 

ステージでピアノを演奏するのはセブ。

客席のミアとの間に視線が通います。

一瞬、ふたりの間には、あのときああしていたらこうなって、

こうなっていればああなってという、

ありえたかもしれない、もうひとつの人生のシークエンスが、

走馬灯のように浮かんで、そして消えます。

 

「まだ聴いていくかい?」と夫に訊かれ、首を振るミア。

バーを出るときミアとセブは再び視線を交わします。

もうあとには戻らない、取り返せない愛をふたりは噛みしめます。

人生ってこういうものだという、

悟りともあきらめともつかないほろ苦い感情を抱きつつ、

ふたりは目で別れを告げます。

このラストシーンの余韻は、ライザ・ミネリロバート・デ・ニーロの、

ニューヨーク・ニューヨークのそれと似ています。

 

量子力学の考え方では、宇宙は無限にあるということなので、

ミアとセブがゴールインしてめでたしめでたし

という宇宙もあるのかもしれませんね。

もしかして人間の「せつない」という感情は、

ありえたかも知れない宇宙と、いま生きている宇宙が、

つかの間接近した瞬間に生じる「ゆらぎ」を感知したときに

湧き起こる心理的干渉波のようなものかも、

と思ったりしました。

 

ラ・ラ・ランドのラストは、

ニューヨーク・ニューヨークのそれと似ている

と言いましたが、ひとつ違いがあります。

それは、後者は見終わった後、ずっとあのメロディーが

脳内で鳴り続けていたことでした。

ラ・ラ・ランドにはそういう印象的なメロディーがなかったような……

 

これはもう年を取って感性が劣化しているからなんでしょうね。