うめはらなかせの日記みたいな掲示板2

アコースティックギターの前にすべての曲は平等である

法難です

皆さん、安楽寺ってご存じですか?

ぼくは知りませんでした。

安楽寺、いかにもありそうな名前ですけど、

ついこのあいだ仕事で初めて知りました。

 

安楽寺は、京都左京区鹿ヶ谷にあるお寺で、

法然上人の二人の弟子、住蓮上人と安楽上人が、

現在地より東1キロメートルあたり結んだ「鹿ヶ谷草庵」というのが、

起源だそうです。

というのはすべて安楽寺のHPに書かれていました。

anrakuji-kyoto.com

 

そもそも安楽寺を知らないですから、

建永(承元)の法難という歴史的事件も知りませんでした。

この事件には、後鳥羽上皇の二人の女官、

松虫と鈴虫が関係します。

女官といっても、それぞれ9歳と17歳という幼さです。

二人は、念仏の教えに感銘し、いつしか仏門に入りたいと願うようになり、

建永元年(1206)12月、後鳥羽上皇紀州熊野に参拝しているその留守中、

夜中秘かに京都小御所を忍び出て「鹿ヶ谷草庵」を訪ね、

上人たちに剃髪、出家を乞います。

当初、上人たちは出家を認めませんでしたが、彼女らの熱意に負けて、

出家を認めました。

 

さて、このことを知った上皇は激怒します。

翌年の建永2年2月9日、二人の上人は京都六条河原(東本願寺近く)で斬首。

さらに二人の師である法然讃岐国香川県高松市)に、

法然の弟子の親鸞越後国新潟県上越市)に流罪に処します。

 

これって、ものすごく厳しい弾圧じゃないでしょうか。

背景には新たに勃興してきた法然一派に対する、

旧勢力の反発があったようです。

南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば、

死後は平等に往生できる

そんな教えを広める新参者は

認めるわけにはいかないってことでしょう。

なかでも安楽房という僧は、読経だけでなく、

それに節をつけてうたうように説法したので、

とりわけ軽薄な掟破りのように目されたと思います。

 

ウィキペディアによると、

彼女たちは安楽房の説法を聞くために

彼らを上皇不在の御所に招き入れ、夜遅くなったからとして

そのまま御所に泊めたとされている。

とあります。

これを知って、上皇は怒り心頭に発したようです。

なんか、そこはわかる気がします。

トータルで、

法然の門弟4人の死罪、

法然親鸞ら中心的な門弟7人が

流罪に処された事件

となりました。

 

このとき法然は75歳だったといいますから(親鸞は35歳)、

相当老骨に鞭打つ厳しい措置だったでしょう。

結果として法然親鸞は今生の別れとなりました。


二人の若き尼は、その後、両姫は瀬戸内海に浮かぶ生口島の光明防で

念仏三昧の余生を送り、松虫は35歳、鈴虫は45歳で

往生を遂げたと伝えられています。

そして、流罪を解かれて帰ってきた法然の願いによって

現在の安楽寺がつくられたとのこと。

いや~、歴史って面白いですねえ。