お経は長い短い、上手下手より、そのあとの法話が大事な気がします。
最近ではお経が終わったらそれだけで帰ってしまうお坊さんも多いですが、
みのさんのお通夜では違いました。
故人との親交を感じさせるエピソードを通じて、
故人や遺族への思いを自分の言葉で語られました。
まだお若い住職さんのようでしたけれど、
僧職を離れた市井の人としての気持ちも込められた温かいお話で締められると、
ありがたいお経に人の血が通う気がするというものです。
その住職さんがお経のあとに読まれたのが「白骨の御文」でした。
全文は書けませんが、とくにこの一文が印象に残りました。
されば朝(あした)には紅顔ありて夕べには白骨となれる身なり。
現代訳では、
それゆえ、朝には紅いの血気盛んな顔色であって
も、夕には白骨となる身であります。
白骨の御文とは解説によると、
灰葬勤行の際に拝読されるが、
人間の無常の有り様を訴えるに切なるものがあるとして、
真宗の内外を問わず広く知られている。
必ず迎えなければならない死に触れることが、
現在の生を問わせるのには最も有効な手段であることから、
蓮如は巧みにこれを教化に取り入れたのである。
ということで蓮如さん作のようです。
あんなに元気だった人が、もうこの世におられない
という世のことわりはぼく自身も頭では理解しているつもりですが、
人の死に接すると、ずしりと腹に落ちます。
これからの人との出会い、ライブ、どれも次はもうないのだ
というつもりで臨まなくてはと思います。
ほんとに「明日がない」んですよねえ。