いまマスコミを賑わせている森友改ざん問題、
うんざりするほどの報道量です。
これについてエッセイストの小田嶋隆という人が
面白いことを書いていました。
官僚の作った文章、いわゆる「霞が関文学」について
霞が関文体で書かれたメッセージは、
木で鼻をくくったような行政文書としての機能とは別に、
高い読解力を備えたメンバーの間でだけ通用する
符丁としてもっぱら行間を読み合う形式で流通している。
とまず紹介したうえで、次のように述べています。
私自身、洋楽にカブれて内外の音楽雑誌を濫読していた時期には、
自分で言うのもナンだが、異様な読解力を持っていた。
ひいきの評論家が、一見、ごく普通の言葉で賞賛しているレコード評が、
実は明らかな酷評であることなどは、最初の10行を読めば感知できた。
「○○さんが《小粋な》という言葉を使うのは録音が大っ嫌いな時だからなあ」
「××先生がいきなりコード進行の話をしてるってことは、音楽的に退屈だという意味だよ」
と、もののわかった読者は、
書き手の真意を読み取ることができる。
腕の立つレビュアーは、固定読者に向けて
「こんなイモ盤買うなよ」というメッセージを伝えつつ、
業界向けには無難な賞賛記事として通用するレコード評を自在に書くことができる。
なんと、そういうことだったんですか!
ぼくなんてレコード評の上っ面だけを読んで、
”おすすめ”のレコードを率先して買っていたクチだろうなあ。
でも、このエッセイを読んで一番ドキッとしたのは、
ぼくがときどき書いているライブ日記に思い当たる節があったからです。
そりゃあ、いくつも出演バンドがあるなかで、
苦手なタイプもあるわけで、そこを正直にああいう音楽は苦手です
と書くわけにもいきません。
あの人はほかのバンドの演奏中ずっと大声でしゃべってばかりいました
と書くわけにもいきません。
だれが読んでいるかわからないブログでは、
自分にとってはネガティブな印象を受けた場合でも、
「霞が関文学」ふうに上手にま~るく書く技術が必要です。
ぼくも精一杯いろいろ粉飾しているつもりですが、
鋭い人には見抜かれてるかもなあ。
という以前に、だ~れも読んでない!? なに書いてもええやろか??